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「資本主義からの逃走」
     「識ること、科学という訳語の原点視界」


   


     1月 15th, 2011  Posted 12:00 AM

訳語「科学」の間違い
「科学」という訳語は大きな間違い。
哲学者N先生から私は学びました。
この指摘を受けられたことは私の幸運です。
したがって、デザインをあたかも支援している科学を吟味してきました。
さらに科学と技術、その認識デザインの関係に大きな誤りが最近ますます蔓延しています。
この蔓延状況に翻弄されているデザイナーへの忠告です。
「だから、あなた方のデザイン造形が美しくない」ということに至るわけです。
それは「意識」としての「識る」ことが、
ラテン語・sciusからフランス語・scienceに定着したことに関与していることです。
この原野から見直すべきでしょう。
それはScienceのことです。
scentia・良心的な知性の育成であるべき学域領域の訳語間違いに端を発しているのです。
日本語訳では、様々な「科目」=「分科している学域」、
これが「科学」となってしまったことをN先生は多くの著作で書かれています。
科学技術はもっと間違い
しかもこれが「科学技術」となれば、
原意・原点的な経緯と由来が正確に意思に反映された意識・意志にはつながりません。
もし、正確無比を目指すなら「科学」と「技術」です。
科学技術では、デザインの意思決定、すなわちデザイン意識の基盤ではありえないのです。
したがって、文明・文化の下敷きとして科学・技術をそのままデザインの背景とすれば、
デザイン表現である造形「美」の間違いが氾濫することになるわけです。
願わくば、意識=「識る意思と意志」がscienceという前に、
むしろ「芸術」からのデザイン意思が良心的な解釈だと考えてきました。
デザイン決定=造形への思索・意思が、科学あるいは技術で支援されるとするなら、
芸術・artと技術・technology/engineeringの意思を再度見渡しておくべきでしょう。
芸術原野への「意」
その視界には芸術でインクルーシブされた科学と技術、
この原野に取り囲まれている融合性へと、デザイナー意思を向かわせるべきでしょう。
あえて科学的な表現をするなら、
「学際的な統合」としてのデザイン、
デザイン造形への決定意志は「意」の原点にあるということを私は確信しています。


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