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Posts Tagged ‘自己犠牲’


『資本主義からの逃走』
  「哀しみと悲しみを峻別する慈悲にデザインあり」


   


     6月 28th, 2010  Posted 12:00 AM

二つのかなしみ
私は、心、感情が「かなしむ」様を二つ持っていると納得をしてきました。
それは、私が五体満足に生まれながら、「歩けなくなった体」になってしまったので、
「かなしい」ことを徹底して考え抜いてきたからです。
そして、30年前に「哀しみにデザイン・車椅子の開発」という
自分向けの「車椅子開発企画書」にまとめたことがあります。
これまで、私は「哀しみ」について、哀しみと「美」について記してきました。
「哀しみ」と「悲しみ」
したがって、「哀しみ」と「悲しみ」について、私の私見を述べたいと思います。
私はいつも漢字の表意性と表音性・原意に拘ります。
「哀」は、
心の中がいっぱいになるかなしみを口から出ないように
衣をかけてでも押さえようとする形象を持っています。
「悲」は、
鳥の羽が羽ばたきいっぱい左右に割れるような心持ちの形象です。
私は、「哀」は、自分の感情を閉鎖するように、
他に対しても自己の感情を飲み込んでいる様を表していると思います。
しかし、「悲」は、自分の感情を解放するために、
泣き叫び他にもそのかなしみを届けようとします。
それは勢いをもって、ややもすればその悲しみを暴力化することにつながります。
これが「妬み」や「僻み」や「嫉妬」になる感情です。
日本語が素晴らしいのは、
こうした人間の感情を二つとも統合化する表現を持っていることです。
悲哀と憂鬱
「悲哀」という言葉です。
「悲哀」は「憂鬱」と同義であり、
melancholyという、古代からの精神病的な心理的な解釈が哲学・医学・心理学として、
世界の古典書には「定本」が相当数も存在していることです。
悲哀=憂鬱=メランコリーとして、こうした「定本」を紹介したいと考えています。
日本語は「悲哀」という言葉とともに、もうひとつ大きな言葉を持っています。
「慈悲」
「慈悲」です。
これは仏教用語ですが、
観音菩薩に象徴され見守られている人間感情を表しています。
四無量心」と言われている「慈・悲・喜・捨」の最高位の感情を表しています。
「慈悲」はサンスクリット語では、
慈=マイトリー=maitr、悲=カルナー=karuと表します。
「慈」は「人々に楽を与える」ことであり、
「悲」は「人々の苦を取り除く」こと、と言われています。
結局は、人々への愛・哀であり、これを自己犠牲をいとわない利他行にほかなりません。
私は、愛よりも慈愛の大きさは、自己無我であり自他不二の精神力だと確信しています。
したがって、デザインは「慈愛」の表現としての「美」,
「美」を象徴化していく営為=行学だと自分に言い聞かせているのです。


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『資本主義からの逃走』
    「共同幻想=グランドデザインは統合された妄想」


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
「コミュニケーションとサービスを誤解した経営学」


   


     3月 19th, 2010  Posted 4:21 AM

Communication
コミュニケーションは、「お互いに分配し合う構造」です。
そして、サービスが宗教用語から変遷してきたこと、
それはとても重要だから前述しました。
とりわけ、ビジネスモデルには、この二つの言葉はキーワード。
さらにコンセプトになっています。

しかし、コミュニケーションを単なる「伝達」と片付け、
サービスを「奉仕」と訳して経済用語としたときから、
大きな混乱を看過してきたことは間違いありません。
まさに、コミュニケーションが大事だとか、
サービスに徹するというかけ声は「こだま」しているだけです。
お互いの分配構造は、何をどう納得しながら分配できるのか、
そのお互いの権利と義務のやりとりが善意は原点です。
コミュニケーションが大事というなら、
その性善説が前提となっているのかどうかが前提だと思います。
しかし、現代は性悪説がまかり通ることが当然という
そんな風潮があります。
Service
まして、そこにサービスが付着すると、
損得勘定にもコミュニケーションの分配構造が利己的傾向は、
格段に大きくなってしまうと私は不安です。
デザイナーゆえの「綺麗事」で言えば、
「伝達」+「奉仕」=利他主義への絶対的確信であり、
「伝達」+「奉仕」=自己犠牲だと断言もできます。
大損しても、利得は皆無でも、「善」であることへの勇気は、
コミュニケーションとサービスへの覚悟でなければなりません。

具体例を教育から求めてみます。
教育がサービス産業であるわけがないのです。
教育はコミュニケーションサービスです。
教育は、教える方が教わるという分配構造が強固な伝統行為。
教育はサービスコミュニケーションです。
教育は、次世代への奉仕であって、その奉仕が世代を連鎖系化。
経営学は介入不可能
この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。この実例に「経営学」は介入不可能であることを、
今一度、再確認すれば、サービス対価はベネフィットです。
コミュニケーション対価という分配構造は収益構造には、
決して成立不可能であると考えています。
コミュニケーションとサービスは「経営」=儲け方には、
近接することは決して出来ないのです。
だから、私は大きな誤解があると主張しておきます。
この発言はあることへの序論です。


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