「市民運動のパトロンは決定的資本主義」
4月 25th, 2011 Posted 12:00 AM
まず、市民運動に疑念があります。
昨今は誰もが政治の主役。
だから政治は素人で充分という認識。
そうでしょうか。それは無理でしょう。
政治家と言うほどですから専門的職能だと私は考えます。
当然、どのような職能も素人から始まりますが、
やはり政治家になっていくには基礎知識とそれを支える教養、
そして、立法・行政・司法という法律立案運営を支える哲学。
さらには経営能力など政治家素養は拡大しています。
自身の能力で叶わないならばそれなりの専門家アドバイス。
しかし、アドバイスとの対話が出来うるだけの自己啓発力です。
したがって、市民運動が対象としている「ある問題」設定と、
その問題意識だけではいわゆる「情報処理認識」は不可能です。
ひとまず、ここまでのことがらを政治家資質に求めます。
そして、市民運動もさることながら選挙ともなれば、
その活動資金は不可欠です。
ボランティアが全てを支えられる訳ではないでしょう。
すでに明らかになっていることは、「反なんとか・・」には、
必ずパトロンがいるということです。
いわば、そのパトロンは資本主義的な自己利益のために、
世論、たとえば安全神話を操作するだけのために、
当初は純粋な人を市民運動家にしているだけです。
これはほとんどイデオロギーや思想哲学というより宗教です。
したがって、新興宗教団体がパトロンということになれば、
あの「オウム真理教」を思い出します。
宗教法人格を持ち、この法人格=集金装置に出来ます。
明らかに、これは資本主義を変調させています。
哲学と錯覚する新興宗教観での洗脳です。
今、国際的にも、捕鯨禁止だという市民運動、
反核運動、自然回帰運動、CO2問題運動、反原子力運動にも
パトロンが存在していることは明らかです。
私の疑念はここに止まりません。
市民運動・住民運動・学生運動など、
すべからく「人気度と認知度」、
そうした運動の中心人物のカリスマ性まで加わってくれば、
これは民主主義と言うより、
大衆主義が派生しているということです。
だから民主主義と大衆主義での共通項には、
まず、賛同者数ということ=多数決が民主主義という盲進錯覚を
強引なカリスマ性が引導する必要があるということになります。
これは常套手段であり資本主義利得が必ず張り付いているのです。
地方分権(資本主義の矮小的象徴)が声高になってきていますが、
これが市民運動とどれほど接近しているのかは、
さらに「国難」に覆い被さっています。
あらためて、政治へのパトロン性には厳密な監視が必要です。
このパトロン性から、「政治家存在」と「政治家同一性」を
徹底的に確立していくことが国難への前提です。
復旧・復興を語る前段、「救援」はまだまったく終わっていません。
市民運動がまだ立ち入ることができないのは、
パトロン欠落があるからでしょう。
国難と市民運動は充分に対照化できることになっています。
そして無念極まりないのは市民運動家が首相リーダーという悲劇です。
昨今は誰もが政治の主役。
だから政治は素人で充分という認識。
そうでしょうか。それは無理でしょう。
政治家と言うほどですから専門的職能だと私は考えます。
当然、どのような職能も素人から始まりますが、
やはり政治家になっていくには基礎知識とそれを支える教養、
そして、立法・行政・司法という法律立案運営を支える哲学。
さらには経営能力など政治家素養は拡大しています。
自身の能力で叶わないならばそれなりの専門家アドバイス。
しかし、アドバイスとの対話が出来うるだけの自己啓発力です。
したがって、市民運動が対象としている「ある問題」設定と、
その問題意識だけではいわゆる「情報処理認識」は不可能です。
ひとまず、ここまでのことがらを政治家資質に求めます。
そして、市民運動もさることながら選挙ともなれば、
その活動資金は不可欠です。
ボランティアが全てを支えられる訳ではないでしょう。
すでに明らかになっていることは、「反なんとか・・」には、
必ずパトロンがいるということです。
いわば、そのパトロンは資本主義的な自己利益のために、
世論、たとえば安全神話を操作するだけのために、
当初は純粋な人を市民運動家にしているだけです。
これはほとんどイデオロギーや思想哲学というより宗教です。
したがって、新興宗教団体がパトロンということになれば、
あの「オウム真理教」を思い出します。
宗教法人格を持ち、この法人格=集金装置に出来ます。
明らかに、これは資本主義を変調させています。
哲学と錯覚する新興宗教観での洗脳です。
今、国際的にも、捕鯨禁止だという市民運動、
反核運動、自然回帰運動、CO2問題運動、反原子力運動にも
パトロンが存在していることは明らかです。
私の疑念はここに止まりません。
市民運動・住民運動・学生運動など、
すべからく「人気度と認知度」、
そうした運動の中心人物のカリスマ性まで加わってくれば、
これは民主主義と言うより、
大衆主義が派生しているということです。
だから民主主義と大衆主義での共通項には、
まず、賛同者数ということ=多数決が民主主義という盲進錯覚を
強引なカリスマ性が引導する必要があるということになります。
これは常套手段であり資本主義利得が必ず張り付いているのです。
地方分権(資本主義の矮小的象徴)が声高になってきていますが、
これが市民運動とどれほど接近しているのかは、
さらに「国難」に覆い被さっています。
あらためて、政治へのパトロン性には厳密な監視が必要です。
このパトロン性から、「政治家存在」と「政治家同一性」を
徹底的に確立していくことが国難への前提です。
復旧・復興を語る前段、「救援」はまだまったく終わっていません。
市民運動がまだ立ち入ることができないのは、
パトロン欠落があるからでしょう。
国難と市民運動は充分に対照化できることになっています。
そして無念極まりないのは市民運動家が首相リーダーという悲劇です。
Tags: イデオロギーや思想哲学というより宗教, カリスマ性, ボランティア, 人気度, 大衆主義, 専門家アドバイス, 専門的職能, 市民運動に疑念, 常套手段, 情報処理認識, 政治家, 政治家同一性, 政治家存在, 政治家資質, 救援, 法人格=集金装置, 盲進錯覚, 矮小的象徴, 自己利益のために, 認知度
Posted in 祈望から企望へ
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