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Posts Tagged ‘紅茶文化’


「陶磁器メーカーの相次ぐ倒産はやむなしかもしれない」


   


     1月 21st, 2013  Posted 12:00 AM

陶磁器は、文明の象徴です。
なぜなら、
文明は器=飢えと機=寒さから護る衣服から始まったからです。
にもかかわらず、
欧州の有名ブランドの倒産がここ数年顕著になっています。
無論、
わが国の伝統工芸陶磁器産地も風然の灯火と思える状況になっています。
高校時代から陶磁器には人一倍興味を持って見つめてきました。
そして、自宅の陶磁器はそれなりに選んで集めてきました。
自分でデザインすることもここ3年ほど取り組み、
プラチナの釉薬で、
インダストリアルデザインの導入を有田焼で商品化し始めています。
そうして気づいていることは、
陶磁器が中国の景徳鎮から始まった文明であり、
やがて文化になってきました。
しかし、その技法がとてつもなく進歩・進化しただろうかと判断すると、
伝統は継承されてきただけで、
破壊され裏切られた事例は本当に数少ないと観ています。
あくまでも素材は陶磁器であり、
無論、セラミックという先端技術が陶磁器に応用には至っていません。 
欧州の紅茶文化や、食卓文化、料理との相互性などにおいて、
私は、まず、「創意工夫」が尽くされてきたとは思えません。
これは、陶磁器デザイン=工芸デザインは、相変わらずに、
「装飾主義」がデザイン・意匠に結びついているからです。
せめて、伝統を裏切り、新しい食器文化を問題意識において、
「問題解決」としての陶磁器を超えてくるべきだったと思います。
すでに、水はペットボトルに、
コーヒーメーカーから缶コーヒーがあり、
紅茶のシステムも変化しています。
文明の再構築は「器」への問題意識なのかもしれません。
陶磁器デザインは「絵付け」にありとするなら、
その絵付けなどは、
パソコン、インターネットなどで自由に、
自宅で絵付けと焼成ぐらい出来て当然です。
今年早くも、
イタリアの名門陶磁器ブランド・リチャードジノリの倒産を知って、
私は、インダストリアルデザインの立場からの発言を決心した次第です。
まったく形態デザインの問題解決がほとんど見られません。


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「カップとソーサーの関係は文化の基本」


   


     3月 9th, 2012  Posted 12:00 AM

文明とは飢えと寒さから身体を護ること。
だから、「器」と「着物」が文明の最初の発明でした。
そして「器」は形態的な進化をしていきます。
やがて「器」形態が文化を生み出すことになります。
その実例の一つに、コーヒー文化、紅茶文化、日本では茶道になります。
さて、
コーヒーと紅茶が西洋文明の中で文化になっていく基本がありました。
「紅茶」は高温ゆえに、一度はソーサーで温度を下げました。
そしてティーカップの口径は
コーヒーカップより大きめで高さも低いわけです。
このソーサーの容量とカップの容量は同量だったという寸法基準が、
文明から文化へとつながっていきます。
ところがこの基本を現代はすっかり忘れています。
特に、コーヒー文化、紅茶文化を輸入した国々、日本などは顕著ですが、
カップとソーサーの同量容積関係に精通していない結果、
ティーカップ、コーヒーカップ、ソーサー性能を表現していないため、
国際商品にはなりえなかったと判断することが可能です。
特に、日本の陶器(粘土が土成分)産地の
コーヒーカップやティーカップのデザインは基本的に間違いだらけです。
若い頃、このことを陶器産地で相当に話をした結果、
私はその産地に出入り禁止になった経験があります。
無知識さな陶芸作家ということで、
「先生」と百貨店から呼ばれ
醜悪な作品を造っていた人から受けた屈辱でした。
そして、日本の茶道、特に「家元制度」がかえって、
本来の茶道たる文化を破壊している実例も存分に知っています。
なぜ、西洋文明の「器」が、文化としてのカップとソーサー、
それぞれの容積性能があったのかは重大な智恵の核心です。
モダンデザインによりその基本は解放されました。
しかし、ロシア・アヴァンギャルドでは遵守されていました。
茶托的なソーサー形態を創出するには、
こうした知見をデザイナーは深めるべきでしょう。
私の、陶磁器でのカップ・ソーサー、
モダンデザインでのコーヒーカップの収集ポイントには、
この文明としての「器」から、
文化としてのカップとソーサーへの研究心が核になっています。
私は、この基本を絶対基準として陶磁器デザインに向かっています。
*ロシア・アヴァンギャルド(MoMA収蔵品レプリカ)・KAWASAKI Collection

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