「資本主義からの逃走」
「あくまでも『多様化』無し、理由は維新にあり」
1月 18th, 2011 Posted 12:58 AM
varietyとdiversity
私は納得していません。
「価値の多様化」は起こっていません。
あたかもそんな事態だという謀議と幻想です。
無論、多種多様というvarietyにすぎません。
特に、日本人やアジア系はvarietyを好んでいるだけであり、
もう一つのdiversityには至っていません。
これが私の結論的な評価なのです。
あらためて、varietyとdiversityの差異に入り込む必要があるでしょう。
これから、ここをじっくりと検証していきます。
「大化の改新」・その呪いに回帰
さて、まったく突飛な事例を持ち出します。
日本に「革命」は歴史的にも「曖昧消去」なのです。
「大化の改新」はありました。
「呪われているという深層心理」が埋め込められたのです。
以来、この事件の悲惨さを決して直視してこなかった歴史が充分にあるのです。
「血」を見ない、「流血」は歴史から消去してきました。
これが日本人の美学であり、日本人の醜態卑劣さという「ウロボロス」です。
「ウロボロス」とは、トポロジーへと学識化されました。
しかし、このことまで遡及できる資質は限られた才能でしょう。
そこで、私の想像力とある意味、茫漠たる空論理はもっとはじけた歴史的事例をあげておきます。
「明治維新」は決して無血革命ではありません。
どれだけの、しかも若き俊英たちが血まみれで死んでいったことでしょうか。
「昭和維新」の真っ当さも忘却しています。
515,226,この史実こそ、実は「敗戦」経験です。
これは「大化の改新」のごとき呪いに回帰しました。
そして、今や「平成維新」なんていう喧噪さに紛れているのは大馬鹿ヤローたちです。
この事態を予想し、Mの自決事件も忘却されています。
ともかく「維新」という言葉に、
「革命」を入れ子構造化してきたことはきっちりと決着すべきことです。
「維新」とは維持しつつなんとか革新ということになります。
私が、「多様化」と「維新」の文脈をこれからも突き詰めていくでしょう。
なぜ、たかが「多様化否定」にこれほどののしられそうなことを私は書いているのでしょうか。
いづれ明らかにする時期が迫ってきているからです。
「多様化」どころではないことが近づいています。
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