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Posts Tagged ‘現成公案’


11月3日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     11月 3rd, 2010  Posted 10:00 AM

11月3日 大安(丁巳)

「言語道断」とは、
道元が発した禅宗の、
いわば哲学的な言説語である。

ことばでの表現が
全く不可能な世界観を示す、
「道断=言わず、道断=言わず」という
現成公案(=心理は常に
すべての存在の上に、ありのままに
はっきりとあらわれているという解釈)
の一つであった。

『デザインは言語道断』あとがき


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『資本主義からの逃走』
    「共同幻想=グランドデザインは統合された妄想」


   


     6月 11th, 2010  Posted 12:00 AM

共同幻想からは離脱したい
私は、「共同幻想」からは直感的に、離脱したいと思っています。
つまり、理想主義を共有する思索総意は理想そのものであって、
幻想の「弱さ」と「憑依する妄想」に、自分までが入りたくないのです。
ところが「共同幻想」は居心地がいいのです。
批判も非難もされません。
闘争する面倒も無く、自己主義的な安全性が確保維持できるからです。
この居心地を律する何かが必要です。
律する事は、二つあると思っています。
自律決意
● 「孤立する孤独性」を怖れないこと。
● 自家撞着と他愛主義という自己犠牲を受け入れること。
その具体的な実務行動の象徴性が「座禅」です。
「座」は、土=地面に自分の存在に主観性と客観性が同次元で座っている形象です。
時に、共同幻想がかかげるテーマは、
必ず、一つのマニフェストになるものです。
昨今は、政治家のグランドデザインはマニフェストという形式で発表されます。
ところが、グランドデザインゆえに、
「デザイン」の本質からグランドデザインという制度設計コンセプトまでを
政治家という職能では育成されてこなかったものと判断しています。
それは、グランドデザインは恐れ多くも「共同幻想」であり、
妄想化してしまう大衆生理があるのです。
したがって、
「共同幻想」を利用する政治的な制度設計=グランドデザインならば、
デザインは、「座禅」による「現成公案」を本質の見直しとするべきでしょう。


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『資本主義からの逃走』
  「神の国・・・二つの公案を」


   


     11月 22nd, 2009  Posted 1:22 AM

「公案」という言葉には、二つの意味があります。
091122kouan

私は、この言葉の意味を、「神の国・日本」には、
見事に当てはまっている、と考えてきました。

● もともとは、中国で生まれた言葉、
その意味は、裁判物語です。
日本では公案として「大岡政談」が有名でしょう。
もし、この公案として、
日本は、東京裁判を「公案」とすることができます。
「公案としての東京裁判」は、きっぱりと
わが国の世界的な罪状として語られていることを
否定すべきは否定し、正当な再評価が必要です。

無論独裁化した当時の軍部責任問題の罪状は、
認めなければならないと思います。
しかし、一方的な報復、見せしめとして、
この裁判で戦犯とされた人物裁決には、
大きな疑問と再評価を求めなければならないのです。
その人物を戦犯とした歴史は、
今、書き直しておくべきだと私は考えます。

事例として、広田弘毅は文人であり、
なんら戦時責任を問われるべきではなかったはずです。
そして、罪状明確な戦争責任者が、
合祀されている靖国問題もここに端を発していることを
きっちりと整理すべきです。

B級戦犯となった岡田中将の軍人としての主張である、
名古屋空襲への抵抗攻撃もすでに、
忘却されようとしています。
「明日への遺言」という映画記録は公案となっていますが、
どういうわけか、
決して語りつながれようとはしていません。

したがって、
● 私は「公案」=「現成公案」にて、
禅宗的な問題解決の対象として、
東京裁判を配置するべきだと考え提案したいと思います。

なぜなら、
国際法としての戦争責任から考えれば、
母国歴史での罪状が、今なお、問い詰められていることへ
「現成公案」をもって、
罪状よりも、戦争であったからこそ、
果たしえた解放戦線があったことこそ「公案」を
世界に公認させておかなければ、
それこそ、
戦死者への真の鎮魂は不可能であることを
「現成公案」として
「無字」(無門関という禅書の応答)なりの
日本人の心情を国際化することこそ、
「神の国の復興」に他なならないと私は考えています。


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