kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘活字’


「『松丸本舗主義』・松岡正剛へのアフェクション」


   


     10月 17th, 2012  Posted 12:00 AM

「松丸本舗」といういわば実験書店が閉店になりました。
その仕掛け人というか引受人だった松岡正剛氏は、
その開店から閉店の経過と
「書籍文化」・「書店の時代的な存在性」を「主義」として、
その報告を出版しました。
「主義」とすることが彼ならではのオリジナリティだと思います。
すでに読者諸兄も実感と感慨があるはずと推察しますが、
すでに「活字・書籍・本」は、
特にその流通形式性を時代から剥奪されています。
そんな中で、「松丸本舗」という新たな書店形式は、
3年間、日本での存在性を訴求してきましたが、
商業主義の本領からは外れる結果になりました。
彼から「松丸本舗主義」を出版するから一文寄稿の依頼がありました。
その時の感慨を、私は書籍化されてさらにその深みに身を沈めています。
正直、書籍流通の大革新性は、「活字を抹殺」していますから、
この書店形式で支えられるとは私は思っていませんでした。
それはすでに私が「本」と対峙し対話し対決し融合化するにあたって、
現代的な流通系から書籍をひろいあげることは
皆無になってきたからでした。
むしろ、私は松岡正剛と書籍の体系に、
わが身を委ねることへのアフェクションを人生体験、
そのものにしてきたからです。
もし、この「松丸本舗」が書籍流通を変革ならしめたとするなら、
その事態こそアトピーだということです。
しかし、膨大な書籍知ある天分的な松岡正剛には、
この時代認識の後片付け的に「実験店舗」は、
時代の中での書籍意識の再確認を日本人に教示してくれたのです。
私はこれを「エピスメーテー」と表現しました。
ここまで、見せつけないと知的であるはずの我々も、
自覚性を喪失していたと言っても過言ではないでしょう。
私たちは気づいていることさえ忘却させられるほど、
「書籍=活字」に対しては痒み無きアトピーになっています。
「松丸本舗主義」は、その重大な警告だと受け止めるべきでしょう。
それは、「活字=書籍」に限定されているわけではなく、
「活きる術としての必需品全て」が、
世界観の中に浮遊しているのが現実だと私たちは常時、
アトピーになっている自画像に見入るべきだと考えます。
幸いにして、私は「歩くことができません」、
だから「走ることなど不可能」です。
このことを私は常に突きつけられているだけに、
「自覚すべきこと」を忘れないでいられるのでしょう。
もし、「松丸本舗」という書店形式の提示を失敗と言い切るなら、
それは、自分自身を喪失している、
まさにアトピーにも気づかない活きている死者だということです。
私は、その主義という言葉に集約している松岡正剛には、
アフェクションを再度捧げた次第です。


目次を見る

「ヘルベチカは文字の結論になっている」


   


     4月 18th, 2012  Posted 12:00 AM

キャスロンとフーツラを最初に学びました。
美大入学とともに一年間、
レタリングの「訓練」が私のデザイン初体験でした。
デザインストロークというフリーハンドでの直線と曲線描きを
完全に手に覚えさせます。
カーペンターペンシルでのラフなアルファベットの書き順も覚えます。
スクリプト体はまさに毛筆での草書のごとく
身体化させなければなりません。
こうしたことが「HIRANO DESIGN METHOD」の基本です。
そして、前回紹介したスクリプトは
今もトレーニングをし続けています。
iPadでのスタイラス運筆は
この応用をそのうちAppleStoreでプレゼンする予定です。
東芝時代はマイクログラマがオーディオ機器には不可欠書体でした。
そして、ヘルベチカの進化は見続けてきたと思います。
一般には印刷はグーテンベルクが教科書的な説明ですが、
本来はアルドゥスの存在無くして印刷の進歩はありえなかったのです。
そして、ヘルベチカ、つまり「スイス」という名の書体は、
活字の鋳造技術とともに発展しました。
なおかつ、この書体の発案者と職人技を成し遂げた二人の人物を
世界中が支援していくのです。
ある意味ではパブリックドメインの事例の一つです。
というのは、このDVDで深く知ることができました。
しかも、この書体づくりに関わった人たちはまだお元気なわけです。
デザイナーに限らず、
このDVDは教養として観ていただきたいと思います。
結局はこの文字=書体が歴史を統合して、
「結論」を出してしまったのです。
「これなら、満遍なくみんなが分かる」ということでしょう。

目次を見る