kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘活力’


「器械から機械そして機器へ」


   


     6月 19th, 2011  Posted 12:00 AM

器械は活力を増大させる。
これはダ・ヴィンチの発想。
そして彼の発想器械には、
「計算機」と誤解釈されてきたモノ、
それは「速度を増幅させる研究」という
デッサンがあります。
すでに使われなくなった言葉である「輪軸」から、
12個ペアになった歯車がならんでいます。
そして、ダ・ヴィンチはこれを使えば、
速度は10の23乗になるという予測値があります。
現在の研究では、彼の計算間違いが指摘されています。
しかし、私はこの発想に目を向けると、
現代に到る、科学から技術の歴史変遷から
重大なことが見えてくると判断しています。
器械という言葉が機械となり、
今では機器という名辞になっているにも関わらず、
機械と機器を技術領域が曖昧にしてきたことです。
器械は力をつくらないはずが、
発電機器なるモノが可能なのかどうかということです。
電子機器、情報機器、音響機器という表現は正当です。
ということは、エネルギーを発生させる機械、
そのようなモノは成立するのだろうかということです。
私は、音響機器のデザインからデザイナーになりました。
機器が稼働するのは、
すべからく「エネルギーあってのこと」です。
文明はエネルギーの発展史でした。
そして、機器となって文明は文化創出になります。
私の関心はエネルギーと機器に焦点が集中しています。

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「エネルギーはレトリックにならず」


   


     6月 18th, 2011  Posted 3:43 AM

エネルギーという概念は、
すでに、ヘロンの時代から。
ダ・ヴィンチもすでに、
器械は小さな力で大きな仕事量、
この考え方をベースにしていたのでしょう。
結果、彼は、
器械はまず力を使うことがあっても、
器械から力は絶対に発生しないと語っていました。
当時は「活力」ということばであり、
T.ヤングが1807年にギリシア語から、
エネルギーということばを創ったのです。
したがって、
「あの人はエネルギッシュだ」という表現は、
まさに当初の力=活力そのままを表しています。
energeia→en(内部)+ergon(仕事)という原意は、
「活力」という表現をさらに強化したことばであって、
修辞学的=レトリックにはならない直喩的なことばです。
今、私たちは「節電」という社会環境構造を、
絶対に受け入れなければなりません。
私は、原子力でまかなってきた電力は、
社会全体の「活力」そのままであって、
その本当は叡智であってほしかったはずの原子力技術を
蔑ろにしてしまったことに苛立ちと哀しみを感じます。
なぜなら、
「活力」=エネルギーは、
人々の活性化であり、社会の活性度であり、
「生きていく・生きながらえる」源泉を、
原子力技術を取り囲んでいた人達自らが破壊したのです。
「節電」とは「活力」を奪うことを直喩しています。
エネルギーということばが直喩にはなっても、
決してレトリック用語にはならない、
そのことをを噛みしめるべきです。

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2月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     2月 19th, 2010  Posted 11:27 PM

2月19日 赤口(庚子)

ガストン・バシュラールの著作である
『空と夢』は、
風を考える上でのテキストになった。

たとえば、
優しさと凶暴、
清純と錯乱という感情の対立を、
風に託して
私的なイメージにする手法、
つまり、「破壊」と「活力」という
風の二重の激しさで
語りつくしてくれている。

『プラトンのオルゴール』
花鳥風月、風のごとくデザイン


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