kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘日記’


『Websiteはそろそろ担当のプロが必要になってきた』


   


     3月 25th, 2015  Posted 12:00 AM

WebsiteーいわゆるHP・ホームページは、
ホームページを大阪大学に来てから、
独自のkazuokawasaki.jpでなるべくwebsite発信の場にしてきました。
したがって、スタッフ担当に一任してきましたが、
そろそろ、ホームページだけの担当者が必要なほど多岐になりました。
私が自分自身関与しているは、毎夜のブログアップは直接的に
HTMLまでを確認していますが、大慌てでアップすることもあり、
文章や助詞間違いを読者から何度指摘されています。
しかし、このブログではいつも時代傾向が反映していることを知ります。
文章が1200文字を超えると読まれないことや、
写真で視覚性が必要になってきたことがありますが、
毎夜書き続けることは私には修行になっていますから、休筆をすると
すぐに友人知人から体調を崩しているのではという心配を受けます。
体調が優れない場合はやはり書けませんが、
私には日記であり、特にデザイナーとしての記録にしています。
このwebsiteのコンテンツはあるヒエラルキー構造であり、
これの変換にはそろそろプロが必要になってきています。
またwebsiteとfacebookは連動させることにしていますが、
そろそろこの一新をデザイナーとして狙いたいと思っています。
また、日本人は土日にはとりわけブログ読者は低減するようです。
HP上の地球はサーバー時刻で朝昼晩の時刻と連動しています。
かつて、デザイナーなのにセンスが無いと叩かれましたが、
これにも正面切って喧嘩を売りました。
理由は簡単で、センスの問題がグラフィックなのか、
インターラクションなのかは明快ではないことでした。
無論反省面もありますが、実際はHTMLの限界があることは
間違いありませんから、そろそろ一新ですが、
リタイアしたなら、実はこの背後には、特別なクラウド設定の
私なりの実験をやっていることを明かしたいと思います。

*名古屋市立大学のマークは私のデザインです。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
「マスメディアの傲慢さは権利だけを主張、義務に気づかず」


   


     3月 26th, 2010  Posted 2:05 AM

Blog=日記形式
私はブログが流行りだしたときにブログが「日記形式」に、
偏在して拡大していくことをかなり激しく否定しました。
そのおかげで、私も相当に非難されました。
私には、ブログが「日記形式」だけになると、
日記形式の「日記内容」が、プライベートの確認になる、
そんなふうに危惧し過ぎたのです。危惧でした。
Privacy
プライベート、すなわち「プライバシー」という定義は、
20世紀、特に大戦後はその定義は幾たびも変貌しました。
特に、法律定義として、法律術語として書き直されました。
だんだんと定義内容は複雑にならざるをえなかった言葉です。
プライバシーとは、
元来は単純、「他人から観察されない状況や状態」でした。
ところが、他人と自分との関係が膨らんでいくのです。
「他人から観察されない権利であり、
自分からの発信する情報、
その情報すら他人から保全される、
発信することも受信することも、社会的な観察・監理などから
まったく自由で解放されている」、という
きわめてこれこそ「民主主義」という極論に至ってしまったのです。
私は、このプライバシーやプライベートの権利主張は、
完全なる間違いだったことを指摘します。
完全なる間違い
「完全なる間違い」と断言するのです。
おそらく、この一方的な見解に、
またまた批判や非難が集中することでしょう。
構いません。受けてたちます。
なぜなら、「民主主義の偏り」は「自由主義」にあるのです。
「自由主義的な権利の主張」、あるいは、
権利の主張が自由主義、これこそ大きな間違いなのです。
そこに、「マスメディア」こそ「民主主義の代弁者」という、
とてつもない思い上がりが重なってきたのだと思います。
したがって、
新聞・TVなどのマスメディアは、
個人のプライバシーを、「知らしめる権利」とまで置き換えました。
有名な世相評論家の言葉があります。
「私は、正論で評論を書くのか、
あるいは、
反論で評論するのか、は、マスメディア企業方針で」です。
私が、プライバシーがブログで「日記形式」に偏ることを
最も危惧したのは、
このプライバシーをマスメディアが攻撃する、
そんな権利を宣言されてはたまらないと思ったからでした。
ところが、逆転したのです。
理由は簡単でした。
権利と義務
ブログの日記形式には「発言する権利の前に義務」をつくしていたことでした。
どのブログも、日記形式と内容は自分自身の意見吐露でした。
となれば、マスメディアは彼ら自身の「義務」にさえ気づかず、
「権利」ばかりを「表現」してきたことだったとも言えます。
これこそ、マスコミの傲慢さと暴力性にまでつながっていたのかもしれません。


目次を見る