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『資本主義からの逃走』
   「綺麗事が慈愛資本になることを確認する」


   


     7月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

「綺麗事」
「慈愛」という「優しい」感性論を私は述べてきました。
まさに、「綺麗事」です。
むずがゆくなるほどの「綺麗事」です。
しかし、「慈善」という制度となっている社会的演技性は全否定しています。
「慈善」というのは「綺麗事」ではありません。
もし、慈善事業で私が認めるのは、
その資金を提供することと、町中を掃除することぐらいでしょうか。
「綺麗事」というのは、まず「綺麗にする」コトが前提です。
この前提は、形容動詞の行動だということです。
「きれいな私になりたい」という女心、
最近は男性も「きれいになる」ということが具体例です。
しかし、「綺麗事」は辞書的には三つの意味があると定義されています。
1. 表面だけを取り繕って、見かけや口先だけ、体裁を整えて見せること。 
2. 手際よくきれいに仕上げられた仕事  
3. 自分は汚れないで済ませられること。  
こうした定義から、むずかゆさを覚えるのは、
体裁づくりや、自分が免れるようなことをも「綺麗事」という意味があることです。
私の本命的な意図は、
 ● 手際良さ 
 ● 美しさを呼び込むために綺麗にする意志
 ● 仕上げが充実していること 
この三つです。この三つをデザインの目標にすることです。
いわば、「綺麗事」を口にするときに覚える体裁や
自分逃れっぽさを全否定する清々堂々とした態度が「綺麗」であることです。
デザインは「美しさ」を目的にしています。
偽りや体裁づくりではありえません。だから、正に「綺麗事」の中核を創出することです。
たとえば、理想主義の思想は「綺麗事」です。
それも抽象的な表現に傾く傾向があることは否めません。
だから、政治も経済もその思想には、体裁や見かけでの誤魔化しが横行します。
けれども、デザインで具現化されたモノ・コトは、
まず、綺麗かどうかの判断評価があります。
清々堂々・正々堂々
もし、体裁デザインであれば、それは即刻否定され、デザインされた価値を剥奪されます。
デザインは正直です。
その正直さに「慈愛」が込められている「綺麗事」が真正面的に評価されることです。
「綺麗事」への信用と信頼をデザインが発信し、
「綺麗事」という社会的評価が正当でなければ、そのデザインは全否定されることになります。
デザインが創出する「綺麗事」こそ、
「きれいな社会」から「美しい世界」へという道程にほかなりません。
私は「綺麗事」を正々堂々と表現伝達する職能がデザイナーだと思っています。


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『資本主義からの逃走』
  「慈愛は慈善には決してつながらず」


   


     6月 30th, 2010  Posted 12:00 AM

ボランティアなる慈善
「感情」の病は憂鬱であり、
単なる悲哀にとどまっているわけではないと思ってきました。
そして、悲哀を包み込む「慈愛」は、
哀=愛よりも広大無辺な支援力を持っています。
私が車椅子生活を宣告されて、リハビリテーションで入院していた時、
いわゆる「ボランティア」という活動が日本でも芽生えた直後だったと思います。
「明日は、あいつらが来るから、それなりに演技せーよ」と言う話を初めて聞きました。
私には何のことかわからず、6人部屋でしたから、尋ねました。
「明日になったら、わかるから」、と
誰も教えてくれませんでした。
当日、いかにも金持ち風の年配で、ギラギラしたメガネのおばさんたちが、
おしゃべりしながらやってきました。
だから、私はギラギラしたメガネのデザインは絶対にしないことにしています。
さて、病棟は、けたたましくうるさく、あの連中が?、でした。
その日、やや熱のあった私には、耐え難き時間が流れていきました。
私は、寝込んでいて、入れ替わり立ち替わり話かけられることにうんざりでした。
「どうしてこんな体になったの?」
「気分が悪いの?」
「ゆっくり休んでいなさい」
「洗濯物があったら、洗うから出しなさい」
(ウルセーェー!)、本当なら叫び罵っていたと思います。
彼女らが、満足気に帰っていくのも、けたたましくうるさかったのです。
「みんな、今日はみんな演技が巧かったなー」と、
病室は、おばさんたち一人一人のまるで品評会でした。
私は、この両者に「怒り」が残りました。
『これが、慈善ってやつなのか?』
慈善は、「施す側」は気持ちいいのでしょう。
「施される側」は、百も承知で、演技で感謝しているかのように演じます。
この演じ合いは、見るに堪えかねる情景でした。
以来、「慈善」は信じられません。
まず、言葉が間違っています。
「神様に捧げる象徴としての羊の頭」を「慈しむ」ことを表意していますが、
こんなことは想像ができません。
つまり、切り取った羊の頭を慈しむという場面は想像を絶するからです。
慈善事業への疑念
「慈善事業」はありえない。
慈善を声高にする団体など、信じること、
それは私には正直、疑念しかありません。
そして、デザインは決して慈善事業などに関与することを私は全否定します。
「我為汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦」
お釈迦様は汝のために説くだろう。
観世音の名を聞き、観世音の姿を見て、観世音を念じ、
空しく過ごさなければ、諸々の苦しみを滅ぼすことができることだろう。
観音経』の一節こそ、「慈悲」の力であり、
「慈善」になりえないことを言い説いています。


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