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Posts Tagged ‘意志決定’


『手首測定の電子血圧計はもっと進化が必要だ』


   


     8月 20th, 2016  Posted 12:00 AM

交通被災、そして心臓障害という身体になってから、
自分の役割は大きく変わってきたと思っています。
そして、心臓障害も結局は交通被災・車イス生活になって、
その後遺症だったという推測はほぼ正しいようです。
しかも最近では老齢化によって身体状況は大きく変化しています。
健常であった頃は、低血圧気味であったのですが、
最近は老齢化によって血圧の上昇がみられるようです。
幸いなことに、私デザインの手首での電子血圧計があります。
このメーカーは、OEM専業メーカーでしたが、
自社ブランドの血圧計生産と自社販売計画にデザイン参加しました。
そして、ロイヤリティ契約は5年であり、その5年が終了しました。
クライアントとしては、なかなか難しいメーカーでした。
フリーのデザイナーにとって、最終の意志決定者が社長であり、
しかもその社長にはセンスというものがないこと、
そして文科系で銀行出身者ともなると最悪の意志決定をされてしまいます。
このメーカーはまさに銀行出身であり、センスどころか過去の失敗経験を
最もデザインに意志決定をワンマンにされていました。
おそらく若かったらこのようなメーカーとは絶対に喧嘩をしてしまいます。
しかし、技術現場と営業現場がなんとか私デザインを護ってくれました。
電子血圧計は大企業の競合に飛び込んでいくことです。
自分が最も注目したのは欧州での血圧学会認定メーカーが皆無な点でした。
したがって、猛反対する社長意見にこの認定を取ることと、
色彩についても黙秘することでした。
その製品が5年間で果たすべきデザインの役目は終わりました。
そして、その社長自身が更迭されることになりました。
しかも最近の私にとって毎朝毎夕はドクターから測定を言い渡されています。
この結果を表計算ソフトに取り込み、最高血圧・最低血圧・心拍数,
さらに脈圧、これらに対して自分デザインで向きあっています。
おかげで、これからの血圧測定には付加すべきバイタルデータと
そのデータ処理や危険度判定のシステムではなくて
ダイナミックスが見え始めてきました。
この次期製品デザインにはまったく異なる造形言語が決まりつつあります。

* 『血圧・心拍数・脈圧の関係の見詰め直し』
* 「健康自己管理としての血圧計の見直し」
* 『最も基本・バイタルデータの「体温」はデータ化してきた』
* 『講演テーマで最近もっとも多い医学とデザインの「範」』
* 「私の必須道具だから・iPhoneアプリにしてみた」


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『モダンデザイン源流を自分デザインにしてはならない!』


   


     7月 3rd, 2015  Posted 12:00 AM

デザイン審査が難しくなってきています。
この難しさとは、デザインのオリジナリティの判断と
デザインされた形態言語としてのいわゆる模倣性です。
今関わっているデザイン審査においても、
若い審査委員は、形態の美しさから、
素直にすでに存在していて無名性なモノ、といっても
デザインの定本的な形態性をデザイン賞候補にしてしまいます。
私はデザイン審査においては、
審査委員長には三つの役割があると思っています。
まず、徹底した客観的な審査委員会であること、
審査委員が正確な美学性や知見、見識があること、
そして、最終決定においては多数決採点で決定しないこと、
こうした三点に対して、全審査委員に反対されても、
最高の裁断、裁決の意志決定を全審査委員に納得してもらうことです。
今回、海外からの応募でこれもノミネートはするだろう、
そんな予測が当てはまってしまいました。
左はシェーカー教徒の創作であり、これはモダンデザインの手本でした。
右はノミネートされた作品ですが、どうみても模倣です。
しかも右作品のデザイナー名は明らかです。
無論、最近は作者没後50年となれば、フリーであることは明らかです。
これを「ジェネリックデザイン」とか呼ぶ傾向があります。
デザイナーは、元のアノニマス性をコピーして、
さも自分のデザインとか、あらためて意匠権を上手く手に入れます。
しかし、この傾向はデザインの創造性、創造性がデザインの本質、
この鉄則を破ってしまうことであり、
デザイナー失格だと私は断言します。
私は、美大時代から作品は暗記させられました。
それはどこかに自分がその形態を言語化して、
そして覚えてしまう恐れを無くす訓練でした。
ややもすれば、自分のデザインでも「ひょっとすれば」があり、
この物まね、あるいは自分デザインで忘れられた
オリジン性やアーキタイプ性を失う傾向があるからです。
かつてアノニマスデザインであった民藝が、
さも簡単に「民芸」となっても平然たるデザインは
絶対に許容してはならないと考えています。


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「ブランドは常に最高性能をデザインが引き出す」


   


     9月 30th, 2012  Posted 12:00 AM

バッグブランドでは、最も定番でしかも最高級品の、
バーキンやケリーがあります。
これらのバッグは女性にとっては憧憬の品物であり象徴になっています。
だから、こうした定番モデルの素材変遷には、
このブランドの現在技術が性能として込められています。
したがって、流行を追いかけるという時代的効能性を
ブランド要因にはまったくしていません。
ところが、このバッグはPC用のバッグですが、
これほど軽量でかつPC保全、
そして素材選別と仕上げが最高品質の性能のモノは皆無だと思います。
このブランドは、特に PC用やスマートホン用での商品化は、
まったく時代と歩調が合っていません。
最近はある種の流行との共時性を持とうとする商品は、
必ず失敗しているのではないかとさえ私は推測します。
また、新素材への見切りのつけ方は迅速です。
そのブランドに存在していたのかどうかすら忘れてしまうほどです。
ブランドの基本原則は、意志決定が素早いこと。
ただし、熟考予測は「未来」を確実に見通していることであり、
これには私はまるで「神」のような予定調和を感じます。
このバッグの皮革処理は、
定番象徴商品のバーキンで最も多用された技術が適用されています。
したがって、このブランド、
その皮革処理はどんどんと新しい技術が開発されています。
理由は、地球環境が著しく悪くなってきているために、
動物皮革の原材料素材の悪化があります。
つまり、このPCバッグは、
とりあえず、最軽量でかつPC保護性能をデザイン解決しています。
この発売からすでに数年経過しました。
そして、このバッグのアソート商品開発がやっと終わったようです。
このバッグが新たなブランドの定番化と象徴化が始まるのかもしれません。
これまでのビジネス系バッグの性能性を存分に検討し終わったのでしょう。
私は、このブランドのメンズ使用バッグは
ほとんどの性能評価を私なりの参考資料にしてきました。
そして、このブランドが未発見なことも存分に自分は蓄積しました。
これまでこのブランドバッグを参考例にしてきましたが、
背景としたブランケットもこのブランドの商品でした。


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「資本主義からの逃走」
     「自分の『意』を見つめることから」


   


     1月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

意は心音
意思と意志が人生を決定。
意思にも意志にも「心」あり。
意・思・志、この三つの漢字に「心」。
私はこの中で、最も生涯分からず仕舞いになる言葉。
それは「意」だと思ってきました。
そして、心なる思考を司っている言葉こそ、「意」だと考えてきました。
私がオーディオマニアであり、「音」に関わってきたのも、
この「意」を知り尽くしたかったのかもしれません。
私が「音」にこだわり、「音響機器」から「音」の具体と抽象、
さらに主観と客観をこの40年以上追いかけていると思っています。
「音」+「心」は、明らかに心音です。
これは、生まれてすぐに心拍となる心臓の鼓動です。
したがって、この心拍、心音が停止すれば、
人間は死にます。生涯が終わるわけです。
ということは、あらためて「意」が生命、生きていることです。
生きていることというのは、自分の身体の中の「意」を制御することです。
ところが、心拍・心音は制御は不可能です。
時に心臓の鼓動が早まったりするのは、正常な身体リズムであれば、
それは交感神経と副交感神経が「心」の動きを正直に表しています。
これは私自身がデザインと医学を結びつけようと仕掛けられた啓示かもしれません。
意志決定と意思決定
ともかく、「意思」と「意志」をまず明白にして、
「意志決定」と「意思決定」は同一であるのだろうか、
もしくは何か違いがあるのだろうかを「意」に焦点を合わせて見つめ目直したいと考えます。


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「資本主義からの逃走」
      「自分の中の『多数決』」


   


     1月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

決定に論無し
私の決定。意志決定。
それには決定論も決定論理もありません。
自分に問いかけてきたのは、
どうしてこの「造形」=デザインに決めたのだろう。
私の意志決定は、デザインの決定に繋がっています。
しかし、決定論、あるいは決定論理を常に求めてきました。
その決定、造形決定、デザイン決定には、
自分の中には「論」も「論理」も正直ありません。
というより、無もしくは空です。
ちょっと日本人らしく言ってみるだけのことですが、
それでも、「論理」を常に求め続けてきたと考えています。
もし、論理的な思考があったとするなら、
それは、「最大公約数」と「最小公倍数」の素数での計算方法でした。
方法論、もしくは手法論はあったかもしれません。
そして、私のデザイン造形で評価されたモノは、
公約数的な素数ではなくて、公倍数の素数の中の「公約数にはありえなかった素数」です。
それは、少なからず、私の中に潜んでいたデザイン要素ですから、
多分自分の中にしか無かったものだと確信しています。
これが私の決定手法であり、もし論理だとするなら、
多数決には決して至らないものではないかと推測しています。
よって、私の決定には決して「多数決」という意志は皆無だと考えています。
この思考ゆえ、私には「多数決」の論も論理もありえないということになります。


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