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Posts Tagged ‘形態創出’


『ハイライト・ポイントは銀色だ』


   


     8月 7th, 2017  Posted 12:00 AM

ハイライト・レンダリングというスケッチ手法があります。
学生時代には、白い色鉛筆やパステルで習っていました。
これはハイライト・ライン:つまり、モノの存在にハイライト、
光線がモノに反映していることを描く技法です。
特に、自動車、カーデザインでの光を受けたライン、
それはストリームライン、流線形を示す想像力ラインです。
ところが社会人になって、東芝ではハイライト・ラインは、
白色ではなくて銀色を使うことを教わりました。
ホワイト・ポイントは常に銀色鉛筆での表現でした。
当時、ハイライト・ラインスケッチは、
国産のミューズコットン紙や三椏の色局紙は駄目、
高価なキャンソンペーパーだったことを思い出します。
鉛筆の元であったという金属ペンシルが登場しましたが、
どうしても、白い紙は色々と試しましたが、気に入らなくて、
黒いノートを探しました。ただこれが2種類しか無かったのです。
そして、アイディアを練るには面白いデザイン用紙ですが、
二つの問題を見つけました。
まず、キャンソンペーパーでもブラックペーパーであること。
さらにペンそのものを金属ペンシルをもっと進化が必要だと思いました。
そんなことからも、鉛筆やシャープペンシルを超える新たなペンシルで、
それは銀色であるべきだと思っています。
かって大企業のトップに新作のデジタルカメラをプレゼントされました。
しかし、そのプレゼントを断ったのです。
理由は製品=モノのハイライト・ラインが狂っていたからです。
最近のデザイナーは、形態創出時でのハイライトデザインを
スケッチでの検討を知らないからです。
カーデザインにこの傾向は顕著です。
ハイライト・ラインは流線形を決定する造形ラインです。

*  『現代に蘇った描くペン』
* 『描くこと=その神髄を決定づけているペンと紙』
* 「机上の一本はスケッチ用万年筆」
* 『見つけた1.3mm芯のシャープペンシルの効能性と機能性』
* 『あくまでも「素材」は木質で確かめる』


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『資本主義からの逃走』
   「『か』にひそんでいる非在している・つつましさ」


   


     7月 9th, 2010  Posted 12:00 AM

形態論
「か・かた・かたち」は、著名な建築家の「形態論」です。
学生時代に、この論理を知って以来、
私は、デザインする「かたち」への手続き・思考の構造に、
この論理を率直に受け入れることで、どれだけ助けられたことでしょうか。
やがて、フリーになり、デザイン対象が拡大するとともに、
特に、インダストリアルデザイン・プロダクトデザインにおいては、
自らもデザイン対象の拡大をめざしてきました。
今なお、「デザインが、なぜそこまで?」と言われたりもしています。
しかし、「デザイン」が一つは、「形態創出」で問題解決を図れるというある種の信念は、
「か・かた・かたち」論を再度、
自分で論理を明確にしようと取り組み始めました。
一つは、日本の伝統工芸産地での職人さんたちから教えられたことがあったこと。
もう一つは、1985年頃に「光造形システム」に出会ったこと。
この二つでした。
もちろん、それまでに東芝で経験したオーディオで、音響生理学や回路、
オーディオと音楽はじめ、地場産業の実情、中小企業の技術の格差などの経験はあります。
こうした経験の中で「かたち論」を醸成してきました。
私の中で、「か・かた・たち・かち・かたち」であり、
「か」
さらに詳細に、「か」・「た」・「ち」という一文字一文字を分解していったことが、
今日まで連続していることは確かです。
「ち」については、chiとして海外で日本語の意味性を語るのに最も明快であり、
エスノメソドロジーから記号論的思考を支えてくれています。
「た」については、今回は省略しますが、これも奥深い意味があります。
さて、「か」というこの表音性と表意性に注目をしなければなりません。
具体的には、「か細い」という言葉が端的です。
「細い」という感覚をさらに「か」が付着することで、
「細さ」の感覚が、より細く、より弱さある細さを意味しています。
「蚊」という生物の存在は、たった一文字です。
香・華・歌などにも、「か」という発音と意味があります。
発音も、弱く、意味そのものでは、次の言葉があります。
化・可・仮・加・価などにもその壊れそうな儚さまでの意味が、
それこそ、インクルーシブされているようです。
発音においても意味の付加性についても「か細い」感覚があります。
私は、「質=たち」に付着あるいは付加されている「か弱さ」が
か+たち=かたち、という解釈を自分に取り込んでいます。
つまり、「質」のか細さやか弱さをも統合している構造体だと考えるわけです。
「質」という確実さを感覚に、訴求するときには、控えめさがあると思います。
非在のための「か」
なんといっても、「かたち」という形は存在していません。
「質」がいくら存在性が強くて、明確な認識を与えていても、
「かたち」には、「つつましさ」が当然、付着していたものと思っています。
もし、モノの形態=モノのかたちを簡素で簡潔であろうとするなら、
「かたち」の存在というのは、控えめな、「つつましい質」だと理解するのです。
私は、これを非在している「質」が「かたち」だという具合に、
言い聞かせることが最近は増えてきたと思っています。


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