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Posts Tagged ‘幾何’


『資本主義からの逃走』
   「学と論をデザインがつなぐ」


   


     10月 7th, 2010  Posted 12:00 AM

幾何に向かうデザイン
問題解決を私は「幾何」という言葉を使います。
これは幾何学そのものとは距離感をおいての言葉です。
幾何学という数学論理に閉ざされつつ、
さらに数学論理から解放されることをめざす言葉運用です。
それは幾何学の原意である「幾何=いかばくの、どのような」という意味をを抽出し、
その言葉での学理としてのかたち=容を求めたいからです。
もう一度、プラトンに戻れば「神は幾何学を業となし給う」というテーゼに回帰するのです。
正直、プラトンが本当にこのテーゼを言ったのかどうかはわかりませんが、
学を教わらず学ばずにして論の中には入るべからず、ということは充分に理解できます。
デザイン学
さて、私はデザインは問題解決の一つの手法だと明言しています。
問題解決の手法=実務学です。
「学」となれは、それは「教わることで学ぶ」という相互性があります。
つまり、教わる「学」となっている、学ぶべき「論」がある学理だということです。
少なからず「デザイン学」は、他の様々な学理の歴史時間はもっていませんが、
短絡的に言えば、バウハウスをシンボルとした学校という場に、
学理がそのまま教科書としても存在していました。
ところが、デザインが応用美術であり、産業支援の実務技法という一般知によって、
「デザイン学」が学術論理であるという公認は、
はなはだ希薄な印象に放置されているということも認めざるをえません。
よって、デザインを言葉の道筋として語られることが手法論理=実務学であるがゆえに、
手法技法や技能としての学理という理解を拒否する、さらに私は批判的に言うならば、
古典的な「時代遅れな学術論者たち」からは多大な誤解とその誇張的な喧伝が残存しています。
こうしたことに荷担している論者たちこそ、実は、「学問」と「論理」、
少なからず「学」と「論」のあらたな統合性や誘導性という学理の学際性を破壊している、
そうしたセンス無き談合集団者であることを露呈しているのです。
デザイン論
明らかに「デザイン論」の論議が、デザイン技法を拡張しさらに、
「問題が何か」という、学理=幾何によって、
さらなる「デザイン学」の進歩による拡充が不可欠になってきていることを
あらためて強調しておきたいと考えます。「デザイン理論」にむかわなければなりません。
デザインを「学而時習之」(論語)とデザインを「論篤是与」(論語)によって、
「論道経邦」(書経)が、
現代、デザインが学と論をつないでいることを明快に評していることを提言しておきます。


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『資本主義からの逃走』
   「何が問題か?は幾何である」


   


     10月 6th, 2010  Posted 12:14 AM

何が←→問題か
問題解決での「答」、その分類をまとめてきました。
その分類によって、答・解答にどんな本質という問題です。
さらなる問題は、
「何が問題か?」と「問題が何か?」、この往来性です。
そして、この往来性には順序があります。

     ■1.何が?
     ■2.問題か?
     ■3.何が問題か?
     ■4.問題は何か?

この順序を入れ替えてみてください。
問題が←→何か
いわゆる問いただすことの道筋に、解答としての言葉・記号・形態・形式など
その整理や配置が混乱するはずです。
何が、ということ・対・問題が、ということは、
問題とは、「幾ばくのことか?」です。
学・論・幾何
それはある種乱暴に断言すれば、「幾何」です。
つまり、問題を突き詰めていくことは幾何学or幾何論なのかをあらためて再問題とすることです。
結局は、「学」と「論」を「幾何」とすることに他なりません。
幾何学から「学」というのは、教わればまず「回答」という解答があるはずです。
幾何論から「論」というのは、言葉の道筋、論理が明確になることです。
プラトンが「幾何学を知らずして、この門より入ることを禁ず」というのは、
課題を教わってその答え方である回答をまず知ってのみ、
本来の、「何が問題か?」を、論じることで、問題解決としての「回答」にたどりつきます。
これこそが「学問」ゆえに教わり学びます。
すなわち「学そのものを問いただす」その存在になれる、ということになるわけです。
「学」と「論」の幾ばくか?=「何が問題か?」、
幾何=いくばくなのだろうを問いただせば、
最終的に「問題は何か?」にたどり着くということです。


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