『幸不幸は束縛=不自由さとの関係であると知るべき』
4月 20th, 2014 Posted 12:00 AM
「幸」という漢字は幸不幸という言葉となって登場したのです。
私は、幸運がなければ幸福には至らないことを中国の古典書から、
学び取ることができると考えてきました。
三つの例示文があります。
説文では、「幸とは吉にして凶を免れるなり」とあり、
「まさに死すべくして生きたるを幸という」は、論語にある。
小爾雅では、「分に非ずして得、これを幸という」と言われます。
断崖絶壁で立たされて突き落とされれば、そこにはじめて、
幸不幸が試されるということです。
すなわち、生きていれば、これは「幸」であり、
死んでしまえば、これを「不幸」と定説されてきました。
果たして、それは「幸」という漢字の象形性に源があります。
手かせ、手錠をかけられた状態で人は生きているというわけです。
それは全く社会で人間が生きていくには不自由さを強要され、
この状況で断崖絶壁に立たされているのが人生だということです。
したがって、幸運さが吉であり、凶を免れています。
さらに人は分を乗り越える幸運さで、不自由さから解放されます。
一般に人は、「幸」こそ自由で奔放さがると誤解していますが、
形象文字は、手錠をかけられた日常が「幸」そのものなのです。
だからこそ、不幸は解放にも関わらずそれは死を意味しています。
まさにデザインは、その手錠にあたるほどの不自由さでしょう。
だからこそ、幸運をもたらすモノによってこそ、
初めて、幸不幸を区別することで生という幸運さをもたらします。
決して、「幸」とは自由ではなくて不自由さを示しています。
私は、あらためて、一般的な認識を再度学び直すべきと考えます。
幸運であること、そして幸福な人生であること、
その根本は「不自由さ」=「幸」と考えるべきでしょう。
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Posted in ConsilienceDesign, 企望を「までい」具現へ, 危機解決をめざすデザイン実務, 祈望から企望へ
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