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Posts Tagged ‘多数決’


『米国は壊れてしまっているその追随国家観を捨てよ』


   


     1月 20th, 2017  Posted 12:00 AM

日本人には米国への大きな誤解を捨てられずにいます。
私はApple社でコンサルタントをしていて以来、
周囲からは「右翼」と呼ばれます。
全くの間違いです。少なからず「左翼」ではありませんが、
右翼ではないのです。
それは米国相手に仕事をしてみれば一辺にわかることです。
現在の民主主義なる多数決などは絶対に信用しないこと。
白人主義、キリスト教教義への大疑問、
しかもポピュリズムでの勘違いから、
米国後追いには大きな疑念を持つことが絶対に必要です。
今回、米国の大統領選挙には、ヒラリーにせよ、トランプにせよ、
米国全体の文明度が後退してきたことゆえに、私は選挙戦最初から、
共和党・トランプになることは当然のこと予想していました。
それは何と言っても「変」なのです。何がか?と言えば、
黒人を解放したのは共和党のリンカーンであり、北軍が勝ったのです。
にもかかわらず、民主党のオバマ大統領が選ばれ、
私のメガネはペイリン副大統領候補に選ばれるとともに、
ふるさと福井県小浜市はオバマ礼賛を行うというポピュリズムでしかなく、
米国では民主義よりもポピュリズムでの世界観の大破壊が進行したのです。
明らかに民主主義は破壊されてヒラリーであろうがトランプであろうが、
「白人主義」がトランプを選び出し、
その背後でのとんでもない世界征服観念が
米国の底辺集団の人気だけを押し出してしまっているのです。
米国の正当な知性は失われました。
世界がとんでもなく壊れていくようです。
米国内の混乱から遠ざかるべきでしょうがそれさえ不可能でしょう。
英国はEUを離れ、ロシアの強権発動、中国の一党独裁、
さらに北朝鮮の狂気、韓国の大混乱、それを相手に大丈夫でしょうか?
なんとか、わが国の義と善と美という神道的発想だけが頼りです。
私は右翼ではありません。ただし、左翼の能無しではありません。

* 「商品が記号となった実例・私の体験と確認」
* 『ロシアでの冬期オリンピックに象徴されていたこと』
* 『中国の模倣づくりは市場経済論と一党独裁で破綻する!』
* 「拉致問題解決が先決、現代問題解決は不可能を表徴」
* 「軍需こそデザインによる革新の真の目的」


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「反多数決=メタ・デモクラシーへ」


   


     6月 5th, 2011  Posted 12:16 AM

民主主義を超えるべき。
生まれたときから、
すでに自然と民主主義の中。
多数決が民主主義の前提、
これが基本原則ではありませんが、
最大多数の最大幸福も、
このイデオロギーに包まれているものということが、
すっかり身体化して生きてきました。
しかし、
デザインを進めていくとき、
私は「多数決」での決定は、絶対に避けます。
以来、民主主義が本当に正しいのだろうか、
この疑念と懸念を常に引きずっています。
そして、もはや結論を明確にしておきたい考えています。
「超・民主主義」あるいは「メタ・デモクラシー」、
こうした思考結果としてのイデオロギーが必要でしょう。
たとえば、私がデザインを提案したとき、
大方の人たちのそれも客観的な評価が、
「いいデザイン」という評価をいただいたら愕然とします。
そのようなデザインは、創造的ではないと思えるのです。
むしろ、みんなが賛同できない、と言う評価なら、
これなら、新しい時代・社会に切り込んでいくデザイン、
創造的な結果を出せたと、自分は納得します。
したがって、説得を相当にしない限り、
特に製品デザインが商品にまとまってはいきません。
命果てるまでに、
なんとしても「メタ・デモクラシー」の基本を
モノのデザインで創りたいと自身に言い聞かせています。

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「破綻していく議会制民主主義は・・・」


   


     4月 20th, 2011  Posted 12:00 AM

資本主義、
その下意識主義には、
民主主義が正当な論理構造。
私が次第に納得できなくなってきたことです。
「資本主義からの逃走」という
ブログを書き始めた動機でした。
この予想は予知だったのかもしれません。
結論を連日見せつけられつつも、
何も抵抗できない自分が居ます。
民主主義がわが国では「議会制」の中に配置されながらも、
「議会制」に呪縛されて解放を成し遂げようという動機すら、
すでに忘れ慣れ切ってしまっていた私たちなのでしょう。
突然、天災がその巨大な特権を発動させた気がします。
わが国の「議会制民主主義」は破綻しています。
問題は三つだと突き詰めることができます。

  ■「多数決」ゆえの政党間騒動がそのまま政治反映
  ■ 民主主義への徹底した疑念を怠慢放置した思考停止
  ■ 議会を構造化している資本主義の脆弱さ放任

この三つを解明できない大衆主義があたかも民主主義という錯覚。
議会制民主主義の制度たる三権分立を崩壊させたマスコミの存在。
私たちは、このあたかも津波に飲み込まれた破綻事態を
「天災tunami」=国難で思い知らされているのでしょう。


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「資本主義からの逃走」
      「自分の中の『多数決』」


   


     1月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

決定に論無し
私の決定。意志決定。
それには決定論も決定論理もありません。
自分に問いかけてきたのは、
どうしてこの「造形」=デザインに決めたのだろう。
私の意志決定は、デザインの決定に繋がっています。
しかし、決定論、あるいは決定論理を常に求めてきました。
その決定、造形決定、デザイン決定には、
自分の中には「論」も「論理」も正直ありません。
というより、無もしくは空です。
ちょっと日本人らしく言ってみるだけのことですが、
それでも、「論理」を常に求め続けてきたと考えています。
もし、論理的な思考があったとするなら、
それは、「最大公約数」と「最小公倍数」の素数での計算方法でした。
方法論、もしくは手法論はあったかもしれません。
そして、私のデザイン造形で評価されたモノは、
公約数的な素数ではなくて、公倍数の素数の中の「公約数にはありえなかった素数」です。
それは、少なからず、私の中に潜んでいたデザイン要素ですから、
多分自分の中にしか無かったものだと確信しています。
これが私の決定手法であり、もし論理だとするなら、
多数決には決して至らないものではないかと推測しています。
よって、私の決定には決して「多数決」という意志は皆無だと考えています。
この思考ゆえ、私には「多数決」の論も論理もありえないということになります。


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「資本主義からの逃走」
     「『多様性』と決定原則=多数決の剥離」


   


     1月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

多数決という脆弱な決定論理
「多数決」という決定制度。
この原則性には、決定論理への単純化。
すなわち、少なからずいくつかの結論が必要です。
もし、意見や主張が「多様」になれば、
もし、10人の意見が10通りあれば、「多数決」の原理にするためには、
少なくとも、2結果選択か、あるいは3結果程度準備する必要があります。
2結果選択が5人づつになれば、再度決選投票になります。
さらに、100人の投票多数決で、A=49:51=Bとなれば、
「多数決」にて、B意見が民主主義的裁断という原則です。
この原則で重大な決定は唯一、一人の意見で結果が分離したことです。
多数決論理が剥離
私のこの単純明快な見方は、民主主義の「正当性」が、
きわめて通俗的な意見収集方法であり、決定論的な曖昧性は残存しているということです。
「多様化」と民主主義との関係性の剥離に対して、
すでに私たちは再熟考が必然になってきているのでは、ということを指摘しておきたいと思います。
そしてこの指摘からは、民主主義への反証性が生まれてしまう危険性があります。
これをを読み解くことが必要であり、今世紀の大きな課題だと考えています。
それは、「多数決」という決定論的な制度を完全否定することです。
これが現在では対抗的に「独裁制」という決定論が生まれていることです。
多様の幾何学
結局、「多数決制」:対:「独裁制」というこの「直線上」には、
まったく論理的な中庸性などありようが無いという事実と現実です。
現代世界観には「多様性」はまったく「民主主義」とは相容れない事象が潜んでいると言うことす。
私は、「多数決」と「独裁」を「直線上」に位置づけました。
果たして、「多様性」に対して、数学的術語である「多様体」という「かたち」には、
この「直線性」の有無があります。
私の思考は、「多様性」から「多様体」までを形容する、
肝心な「多様」という言葉の再検討に再度立ち戻る必要性を感じ取っています。
私はこれを「多様」の幾何学とひとまずタイトル化しておきます。


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「資本主義からの逃走」
「『多様』」は民主主義を精査する」     


   


     1月 5th, 2011  Posted 12:00 AM

民主主義の再熟考を
現代、普遍的正当性の言葉。
国際的な正義観のある言葉。
それは民主主義という行動原則性と理念です。
この民主主義には「多数決」という制度が確立しています。
しかし、私はこの言葉・原則・制度・国際的正義性に対して、
果たして「本当なのだろうか」という疑念懸念があります。
最大多数の最大幸福の下意識主義用語として、
私は再熟考すべきだろうと思いつつも、
これを超越する哲学理念が創れるわけでもありませんが、
とりあえず、この言葉に包括されている私自身の存在については
いくつかの懸念性は書きとどめたいと思っている次第です。
多数決と多様性
その一つに「多様」という言葉があります。
多様は、「多様性」と「多様体」という視界が映っています。
単純に言えば、
「多数決」とは、あくまでも「最大公約数的」な結論がベースとなった、決定論です。
しかし、「多様性」も「多様体」も、「最小公倍数」までを包括しています。
明らかに、「多様であること」は「多数決=民主主義」への再考性を投げかけています。
無論、
「多様性」、「多様体」という言葉=術語と主義主張への決定論用語には差違があるのですが、
少なからず、私は、「民主主義」と「多様性」から重ね合わせた思考の時代が、
今世紀の新たな「思考核心」の一つだと考えています。


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『資本主義からの逃走』
  「民主主義と民衆主義を混乱混濁させるイノベーション」


   


     1月 2nd, 2010  Posted 8:00 AM

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私の民主主義への疑念は、かねてよりありました。
民主主義の基本といわれる
● 「多数決の原則」
● 「合意形成の制御」
という二つによりかかっています。
けれども私には「多数決」にしても「合意性」にしても、
技術進化による「イノベーション」と、
資本蓄積の配分での「インフレーション」の結果です。
いずれも「社会生理」の反応が、
巨大に関与していることに、
注視する時代だということです。

INNOVATION・INFLATION

私は「イノベーション」と「インフレーション」が、
まさしく「資本主義」の基底キーワードだと思います。
したがって、
現代経済社会の「資本主義」と
現代世界観の「民主主義」は
根底で連鎖しているというこになります。

情報操作による人気という合意

そこで、「イノベーション」によって、
「社会生理」が大きく影響されたのは、
「情報認識」と「情報判断」による「情報評価」です。
その「情報操作」をするのは、コンピューター技術です。
とりわけ、コンピューターはインターネットにより、
マスコミ・ジャーナリズムその表現内容を変貌しました。
その表現内容は「感覚の分別性」を混乱混濁させました。
この混乱と混濁を利用して、
民主主義の多数決や合意性は、
確実に、「権力」で「操作」が可能なわけです。
結果として、民主主権ではなく、
大衆と民衆への「合意」ではなく「人気」が作用し、
民衆の多数意見を集中させる権力構造力になっています。
哀しいかな、日本の民主主義は確実に民衆主義の反映を、
民主主義の意思決定の「場」である
「議会制民主主義」に置き換えています。
日本人は、目覚めるべきです。
少なからず、「イノベーション」の選別の偏りそのままが
国民の分別力を失わせているというのが、私の判断です。
「民主主義」は、「人気の多数決での合意」でありません。


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『資本主義からの逃走』
  「デザインやアートに、民主主義は似合わないというトポロジー」


   


     11月 10th, 2009  Posted 10:09 AM

現実、デザイン、そしてアートが社会化される社会は、
民主主義が構築されている日常です。
しかし、デザイナーにしても、アーティストにしても、
その「個人性」には、主義としての民主性は皆無です。
民主主義的な決定はありえないと、私は思っています。
これは、民主主義と個人性の距離=近さへの思考です。
数理的には、「近さ」というトポロジー的観念と、
私は断言することができます。

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つまり、民主主義を位相空間的にとらえるという、
きわめて私流というか、私の特異性に起因しています。
私は、前述しました。
民主主義をずーっと疑ってきたことを告白しました。
「多数決」という基盤的な型論理でした。
民主主義には、もう一つの型論理があります。
「合意形成」です。
私はこの「合意形成」にも、自分は賛同できません。
それは、
デザインを「多数決」でとか、「合意形成」での、
決定論に持ち込むことなどは、不可能だからです。
むしろ、デザインもアートも、「独断的決定」です。
この「独断的決定」が、「民主主義」の日常との接点、
これがなぜ有効となっていくのかというのは、
「トポロジー」=位相空間的な思考解釈が必要です。
この意志決定論に異議申し立てをしたのが、
カタスロフィー理論であり、
「トポロジーを全否定」した人物の思考に遡及する、
ということになります。

民主主義が構築された社会の日常に、
独断的なデザイン・アートが、なぜ不可欠なのかを、
その理論を創出する時期が今世紀だとさえ思っています。


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