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『天衣無縫な時代と社会に活気がある』


   


     1月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

美大を卒業すると教授命令で東芝に就職しました。
教授は他企業は認めず、(今ならパワハラ?、教え子には命令出来ず)
もし他企業ならば卒業させないとまで言われました。
しかし、東芝から始まったサラリーマンデザイナーは最高の日々でした。
サラリーマンではない、ビジネスマンになるならと、
トレーニングを上司達に教えられてきました。
僕を使いこなしていただいた上司達はすべて恩師達です。
にも関わらず、
僕は出張をすれば、ついついその地に泊まり過ぎたり、
遅刻は余りにも多いのでとうとう自由出勤が認められました。
けれども「四番バッター」と言われて入社したので、
ヒット商品は必ず出していたと思っています。
幸いにして、オーディオ分野専門であり「Aurex」のロゴも僕のデザイン。
「Aurex」での僕のデザインは今もオークションで手に入ります。
ほとんど所有しているので金沢21美術館の個展で紹介できました。
現在、東芝は企業として深刻な事態にありますが、
その理由は、顧問をしていたこともありほとんど解っています。
私のようだった東芝マンが当時は存在していたのです。
おそらくこのようなことは決して許されない時代になっているのでしょう。
入社して銀座で飲んでも、社員証でツケが効いた時代でした。
何と言っても僕のビジネスマン的やり方も
なんとなく認められた時代でした。
僕のひらめきは企業ルールをこっそりと変えてしまいましたが、
まあまあ叱られても決着してもらっていました。
電車で通勤すると、時には「電車事故」といってダイヤが変わります。
そうなると、タイムカードに「電故(電車事故)」というハンコを押します。
これをヒントに僕は「バ故(バス事故)」というハンコをモデル費で作成し、
自分だけのタイムカードに押していました。
多分半年目に労働組合にバレてしまい、大説教を受けました。
無論、デザイン部長(電器釜デザイン)にも叱られましたが
発想は認められた、そんな時代でした。
東芝は交通被災で辞職を余儀なくされましたが、つい4、5年前に、
オーディオ事業部OB・OGの「音友会」で挨拶をさせてもらいました。
東芝にはすでに教え子がデザイン部で活躍していますが、
かつて僕が天衣無縫なビジネスマン時代はすっかりと失われました。
入社した翌年「オイルショック」、退社して「バブル景気とその破綻」、
「失われた20年」という日本経済の転落とともに在った時代に、
僕の生涯が乗ってきましたが、
「バ故」というハンコが認められた大らかな日本の時代こそ、
日本が元気いっぱいの歴史を創り上げていたのだと思います。
「天衣無縫」な時代を失うことは、
時代と社会が歪むのだと思わざるをえません。


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『資本主義からの逃走』
    「 恩師との惜別から、また教示されること」


   


     9月 9th, 2010  Posted 12:00 AM

自分流のトレーニング
惜別とは、決して暗い話題ではないと思っています。
確かに、お別れの時の悲しみにはうちひしがれるものです。
しかし、この惜別から与えてもらえることに、
あらためて、「生き続ける」勇気を、「死」という現前から学び直すことができます。
恩師との最初の別れは、
やっと就職してなんとなくデザイナーらしさを自分でも実感し始めた時でした。
同級生から電話が入りました。
「主任教授のY先生が倒れられた」ということでした。
私は動転も動転、もうそこで泣き出しそうになりました。
私の東芝入社も、その先生からの強引な命令でした。
他企業が希望と言うと、「それはいい話だ、受ければいい」
「ホントですか?」
「いいよ!、ただし卒業はきっと出来ないだろう、君は東芝が待っているからね」。
現代なら、確実に、パワーハラスメントでしょう。こうした教授命令が必要なのです。
正直、最初は意に添わずでしたが、先生の判断と評価は「正解」でした。
私の性格・性分・将来をすでに見通しての指示でした。
当時、その先生は画家としても高名でした。
金が無くなると、先生宅で夕食、ただし庭掃除から書庫整理、
先生が色紙に絵を描かれると落款を押すなどの雑務が与えられました。
そんな先生の一大事でしたから、
私は咄嗟に上司に、「お金と休暇」を要求して飛行機で金沢に帰りました。
上司は、「出張にしておくからな」と言ってもらえました。いい時代だったと思います。
もう病院での面会時間が終わっていましたが、
看護師さんがとりはからっていただき、病室に行きました。
先生は、「なんだ、帰ってきてくれたのか、驚かせたな、大丈夫だぞ」と言われました。
「先生、安心しました」
「そうか、今夜はどうする?」
「実家が福井ですから」
先生は、病院の入り口まで見送っていただきました。
私は、もうその時間では福井に帰れず、金沢駅で夜明かしをして、飛行機で東京にもどりました。
それから、一週間後に先生は逝かれました。
でも、駆けつけて先生と別れ際に握手をしました。そのぬくもりのまま合掌することができました。
四番バッター
「川崎、お前は東芝に四番バッター(金沢美大から四番目の入社)で入れたんだ。
ホームランバッターだぞ、ヒット作の連発はお前の役目だぞ」と言われたのです。
これは、当時東芝内定が決まると、他の恩師からもそう言われてきたことでした。
「ホームランバッターはな、欠かさずトレーニングを自分流で毎日毎日し続けることだ」
と言われてきたのです。なかなか、そう簡単に毎日務まることではありませんが、
それこそ、野球選手のイチローを見ていると、「トレーニングなんだ」と自分に勇気が出ます。
あまりに早く他界された恩師から、教えられたことでした。


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