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Posts Tagged ‘南京問題’


『「戦争」など時代遅れであるからこそ再指摘が重大である。』


   


     7月 3rd, 2014  Posted 12:00 AM

「集団的自衛権」の閣議決定がされました。
私は喧嘩師であり右傾の人間と、無能な人たちに言われてきました。
今は右傾=Rising Nationalismでなければならないという立場を
私は保持し主張を拒まずデザイン力で国家経済を支援してきました。
根本的には、「戦争などを最も全勢力で拒む意志力」があります。
なぜ、右傾化を強め、排外主義を訴求するかは、
私の祖父や父、伯父叔父たちがみんな無事にも兵役を務めました。
その青春をすべて国家に捧げてもなお、靖国に眠る人への敬愛と、
全く、左傾した輩たちに、南京問題と慰安婦問題を筆頭にされ、
日本という国家を専守防衛、「ありえない防衛」大事は変です。
この有様が平和だという過ち思想への反抗思想を持っています。
父は、日華事変で第21師団騎兵連隊で兵役にて中国満州に行き、
青島で帰国船内にて大東亜戦争参画のもと、再度上陸し蒙古へ。
それから中国大陸を南下して、インドネシア解放戦線にて闘い、
ベトナムで投降後、フィリピンに抑留されました。
帰国すれば、無職ゆえやむなくノンキャリアの警官になり、
またもや国家体制側として生涯を終わりました。
父の遺言を私は守り抜きます。南京虐殺などは全く無かったこと。
インドネシア・カンボジアを独立させた日本軍の働きこそ、
アジアを植民地解放させてきた日本軍の力であったことです。
わが国が「自力で自国」をこれから最適な軍事力を果たすには、
「自衛権」を打ち立てることは当然のことです。
武士は刀を象徴とし、刀という武器=刃物を使わない道具とした、
この伝統見識を敗戦によって、左傾化した論説を批判する力こそ、
私はやっと大事になってきたと考えるからです。
あらためて均衡を知性として再構築する国家思想としての憲法論議、
これはわが敬愛する父が7年半そして30余年も国家体制に与し、
左傾的新聞論調で汚されたしまった国家思想にこそ、
今私は右傾化という重量で均衡思想としての憲法を求めます。
資源無き、そして3.11で国土喪失したこの国の安全を私は求めます。


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「『危機』・ことばの定義について」


   


     8月 16th, 2013  Posted 1:20 AM

終戦記念日は、歳毎に、私は「敗戦記念日」と思います。
先般も映画「終戦のエンペラー」を観て無念でした。
とりわけ、March 11.2011を受け止めてから、
私は阪大に「危機解決産業創成デザイン重要拠点」
自分の研究室名とし特任でプロジェクトリーダーになっています。
「危機管理工学プロダクトデザイン寄附講座」では、
「危機」というテーマを学術的に追いかけてきました。
7月30日にキックオフにて大阪府警本部長に基調講演後、
この講座の紹介を済ませました。
私の脳裏には、敗戦後以来、また再びの国難を「危機」として、
さらなる学術をプロダクトデザイン実務での問題解決を図る、
ほとんどの周辺学域設定をすませたと思います。
「危機安全学」は、制度設計の学問となったのは、
1960年のキューバ危機から、国際関係論として発生してきました。
今では、日常の防犯・防災から企業危機からテロリスト対策まで、
大きな学問に発展してきましたが、
デザインが接着剤となれば制度設計論から形態設計論になります。
「危機」とは、この文字通りの「危険」と「機会」にあります。
つまり、危険さを機会=チャンスとしての問題解決です。
そしてなんとしても「安全と安心」の確立をすることです。
私の父は、青春を20歳から28歳まで、戦争に従軍し、
焼け野原のふるさと福井に復員し30歳で私が生まれました。
父は今更ながら私を厳格に育てたのは「行学」思想でした。
現在わが国には、国際的な「危機」に取り囲まれています。
「靖国問題」・英霊に礼をつくすことは護らねばなりません。
「教科書問題」・教育での歴史教育を最も最高にします。
「南京問題」・虚像報道で国家までが非難されることに反対です。
「慰安婦問題」・軍事につきまとう事実性を明快にします。
なぜなら、3.11によって、私たちにつきつけられたこと、
それは、地球環境が悪化していくことへの対策です。
さらに、エネルギー問題の根幹を再確認しました。
日本だからこそ、この「危険」を「機会」にして、
「宿痾」=難問解決をデザインで実務的な解決をすることです。


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「『危機管理プロダクトデザイン』は先端統合デザイン」


   


     7月 14th, 2013  Posted 12:00 AM

先端デザイン・統合デザイン、
デザインを形容する先端・統合を作成し、その概要を定義。
大学人として18年の具体的活動には、
2004年に、私はある連載でPKD=Peace-Keeping Designを、
先端的で統合的なデザイン活動としてきました。
この評価は、国内よりも海外で評価されました。
フランスではフランス芸術大学で講義とワークショップに、
米国ではクリントン・グローバル・イニシアティブ では、
私の具体的活動とともにデザインディレクターに選ばれました。
そして、私が最も驚愕したのは中国の反応でした。
北京理工大学にアジアデザインセンターができたとき、
作品を貸しましたが、貸した私は、「もらった」と言われる始末。
そして、講義依頼を受けました。
私は講演レジュメに次の4つを加えました。
靖国問題・教科書問題・南京問題・慰安婦問題です。
「あなたは決して中国には来れない」と返答を受けましたが、
その後、北京で講義をしました。
タイトルは、「デザインによる国際貢献」でした。
中国のデザイン、その先端では国際貢献へのデザインがテーマ。
国内では医療機器メーカーでワクチン接種計画が統合化しました。
ステンレス針は今後は無くなるということで、
経鼻接種の器具開発・遺伝子検査・ワクチン接種方法でした。
その中で、遺伝子検査は一ヶ月を5時間というシステムを完成し、
これを、あるデザインコンペティションに応募しました。
一応は、国内通過しましたが、「難し過ぎる」との評価でした。
私は、「だから、デザイン職能は遅れている」と言っています。
それは審査委員自体の知性力の問題だと確信しています。
わが国のデザインを私は次のように言い放っています。
「欲望の刺激装置としてのデザイン」は終わったのです。
「デザインは難問解決の最適解を形態で解答する実務」です。
そうなれば、当然のこと、浮かび上がってくるのは、
「国際貢献へのデザイン解答」です。
PKD=Peace-Keeping Designはその一つとして、
阪大での「危機管理プロダクトデザイン」のテーマです。


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「終戦間際の消された歴史・亜細亜の中の日本」


   


     10月 4th, 2012  Posted 12:00 AM

「Asia is one.」
これは岡倉天心著「東洋の理想」の書き出し文です。
そして、この言葉が
「大東亜戦争」のテーマ文そのままになりました。
本来、岡倉天心がこの書籍で書き残したこととは
全く異なる東洋の美学論でした。
それは軍部の専制的な当時の論理にすり替えられていました。
しかし、日本軍が成しえた事では、「インドネシア開放」がありました。
列強欧州各国の植民地であったアジア諸国を開放したことです。
しかし、この歴史的事実よりも
「南京問題」や「慰安婦問題」がクローズアップされています。
この「インドネシア開放」を成し遂げた日本軍の活動は
歴史から抹消されています。
現在のシンガポールからベトナムに至る全ての国々が、
植民地から開放されたことは、
あの東京裁判でもほとんど評価どころか無視されたことです。
この開放戦線は「明号作戦」と呼ばれました。
現在、この作戦の資料で残り、
出版された書籍はたった2冊しかありません。
私は、大学人になってからこの17年間にわたって、
こつこつと研究を蓄積してきました。
しかし、まだとても纏められるほどではありません。
来春からの余生においては、この歴史を明らかにしていくつもりです。
二つの理由があります。
まず、徴兵された父の7年間、最後の戦線だったことであり、
「明号作戦」そのものの戦略戦術に直接関与していたことでした。
次に、この作戦に参画した師団・部隊は中国を南下してきました。
当然ながら、南京を占拠してきた部隊でしたが、
彼らの行動・作戦に「南京問題」は皆無だったということです。
アジア各国を開放させて、それぞれの民族の解放、
それこそ、「Asia is one.」をそれぞれ各国が独立することでこそ、
亜細亜をひとつにまとめようという
日本軍の意志であり理想でもあったということです。


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