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『資本主義からの逃走』
「*ファッション、モード、そしてデザインの使命*」


   


     4月 16th, 2010  Posted 12:28 AM

MODE
ファッションは単なる「外見」ではありません。
それは言うまでもないことだったと思います。
けれども、
「外観」までを包括している現代思想表現だと言っておきたいのです。
そうして、外観からの内実性を「モード」としたのは、
ロラン・バルトの「体系化」論でした。
私はこれをファッションとモードの「イオン化傾向」的思考、
そう考えてきました。
流行
したがって、この「イオン化傾向」の急変さや突然さが「流行」であり、
流行のレトリックにモードを構造化できるとも読んできたのです。
具体的には、流行による「外見」から、「外観」を認識します。
さらに「外観」からその内実に迫れば、
ファッション的なモノの本質に近づくことができるかもしれません。
これがデザインとファッション、デザインとモードを、
ひょっとすれば接合や融合や、あるいは合体させてくれるかも知れません。
そんな思考方法が必ずあると考えてきました。
なぜなら、デザインで流行を拒絶させたい、
そんな意志が生まれることもあるからです。
つまり、流行であるから、
そんなに驚喜していることは狂喜に近いという
冷静さが知性だとさえ思うのです。
また真逆に、流行を常に追い求めないと、
いわば大衆的な欲望の本質が読み取れない。
こんなことも容認しておかなければなりません。
しかし、いづれの判断もロラン・バルト的には
「モードの体系」に組み込まれているのです。
結局、それは人間の価値感の変動、
それは「景気」と同次元なことが多いと考えられるからです。
これは明らかにモードであり、
社会の変動をコードとしてテキスト化することへの抵抗を、
人間は「自由意志」として持っているということです。
CODE
「景気」予測は決して「コードの体系」、
たとえば、経済学、あるいはそれこそ「資本論」など、
そうしたところに記述されたことから感じとることはできないのです。
理由は簡単です。「快楽性」が皆無だからです。
しかし、ファッション、モード、ひょっとしてデザインには、
「快楽性」・「快適性」は必ず潜んでいます。
デザインは、決して「コード」を創出する営為ではありませんでした。
しかし、デザイン対象を拡大するとすれば、
「コード」≒制度設計は確実に存在します。
ファッションとして言い直せば、
モードとしてのカジュアル性に対して、
コードとしてのフォーマル性があるということです。
したがって、デザインの本質は、
この均衡状態を見いだすことだとさえ私は考えています。


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『資本主義からの逃走』
「*ファッションは、”外観”だが、”外見”という軽さ*」


   


     4月 15th, 2010  Posted 12:20 AM

外観と外見
DesignとFashionがなぜ、一直線なのでしょうか。
これはなんとなくわかる気がするのです。
それはズバリ、「外観」=見栄えということが、
たとえば、服装のセンスだとか、そこから始まって、
遂には、企業のイメージ、というのも「外観」だと思うからです。
「外観」という言葉に詰め込まれている、本当は充実した中身ではなく、
「外観」だから外側だけという印象があります。
言葉を比べてみるとわかりやすいかも知れません。
「外見」と「外観」です。
時に、次のような言い方があります。
「人を外見で判断してはいけない」というような言い方です。
この忠告があるということは、
人間は「外見」で判断していることが極めて多いということです。
しかし、「外観」というのは、建築ではこの言葉はよく使われます。
「建築外観」、つまり、建設されて出来上がった形を言います。
この場合は決して、「建築外見」とは言いません。
外側を「見る」というのは視覚的に限られますが、
外側を「観る」というのは、
外側からの視覚的な印象をさらに深く洞察するのでしょう。
もし、建築家の方に、
「作品の外見が・・・」とか言うのは失礼でしょう。
というわけで、実は、
ファションは「外見」ということに近い気がします。
デザイナーになって以来、
今でも「デザインって、外見づくりでしょ」ということは
よく耳にします。
だから「外見づくりが、人工心臓?、原子力?、なぜ?」
「メガネ?、それはよくわかる」という体験をしてきました。
ファッションは「外見」に拘ってきたことかもしれません。
しかし、「ボロは着てても心は錦!」というフレーズがあるくらいです。
ファッションの意味性
ファッション」の意味と意義は、
資本主義と民主主義で大きく変わっていったのです。
「ファッション都市」という地方活性化などは、
現代性や共時性を地方に呼び込むことで、
経済と文化を実りあるもの、
「外見」というようなイメージから「外観」というイメージに
大きく変革する政策だったのです。
無論、この政策の成功例はありませんでした。
それは、ファッション=「外観」ならば「内観」は?
「何が内観となって」、
それはファッションの反事象なのだろうか、
この問いかけが皆無だったからです。
結局、「外見」と「外観」を区別し分別する知性対象に、
ファッションはなりえなかったのです。
ファッションが「外観という内実性」を指示した言葉がありました。
MODE
それは、「モード」だったのです。
ファッションとモードには、
いわば「イオン化傾向」のようなものを、
突き詰めて現代を観る思想が登場してくるというわけです。


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