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Posts Tagged ‘内村鑑三’


『十日恵比寿の種銭を大国主命からもらう』


   


     1月 11th, 2015  Posted 12:00 AM

日本神話の神は古事記、日本書紀に描かれています。
日本の神話は、この国づくりの祭神であり、国護りの神です。
出雲大社にはじまるこうした神社は、日本各地に神道として、
日本人にはきわめて穏やかに残っています。
幸い、私の自宅近くにある大国主神社は十日えべっさんという呼称で
商売繁盛が今もっとも神道信仰につながっているようです。
目覚めるとワイフとそのお母さんが初詣もかねて出かけており、
商売繁盛で笹持って来い、とかの種銭をもらいました。
あらためて自分の持っている財布を取り出してみると、
この3つがありましたが、ほとんど持ち歩いた気がありません。
単純にモノとしての出来映えでしか、選んでこなかったようです。
しかも、お金と私の人生はきわめて遠くであり、
そのことを思い知ったのは、二つあります。
まず、私は交通被災で手術入院中に、紙幣のデザインが一新され、
車イス生活になって、紙幣デザインが今もよく分かっていません。
ともかく、今も一番価値があると思えてならないのは 500円硬貨。
また、お金を持ち歩くということも諦めました。
一人で行動することは全くありませんから、
誰かに支払ってもらっています。幸運だといえば幸運です。
もし私が大金持ちでそれこそビル・ゲイツ程の大金持ちでも、
一番望んでいることをお金の力で賄うことは不可能です。
それは「歩けない体をお金があるから歩けるようにはなりません」。
それ以来私には財布も単なるファッションの一部でしかありません。
しかし、私が最も驚いているのは、内村鑑三の名作である、
「後世への最大遺物」には、生きて最後に残すべき最大の物は、
「お金」であるべきと書かれています。
したがって、お金儲けをすべきとは思いますが、
最も私には不得手なことであり、お金持ちになっても歩けないなら、
むしろ、私には神社の配置=神道における自然神の護り方が
とても興味があります。
だから、種銭を今年は財布ともども持ち歩こうかと思っています。


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『「Consilience」に融合の基本概念があるだろうか』


   


     8月 16th, 2014  Posted 12:00 AM

Consilienceという言葉をある教授から与えられて以来、
ほとんど取り憑かれています。
科学と文化、学術と芸術、この「融合」を根本で熟考しています。
私にはまず、疑いがあります。
とりわけ、学際化とは専門領域を融合化するとか言われると、
融合って?となってしまいます。
正直、自分がつかみとって、認識している自覚が無ければ疑います。
それこそ、専門家と公認されていればいるほどそう思います。
かって、日本のトップクラスの研究所での限定された発表会で、
「こいつの発表が全く分からない」と確定したことがあります。
ところが、時代は彼を寵児にしてもてはやしましたが、
その知識の浅薄さは今もそれだけの人間になっているようです。
時代とか、その社会感覚、流行には嘘くささが極めて多いはずゆえ、
それを内村鑑三のある書籍には、その証が書かれています。
また、この基本書に液晶グラスが自分のデザインながら、
これぞ本当に重要なモノです。
100円ショップにまであるようなPCメガネでは何も解決しません。
重要なコトは、青色カットなど意味無く本当は「ドライアイ対策」。
パソコン画面に向かっている特にコンタクトをしていたなら、
ドライアイが目の病気を誘発することは間違いありません。
このデザインには、造形で、技術と医学を融解させ合わせています。
少なからず、二つの専門分野を対象デザインに向けて、
融解することになります。その融解させる工程での合体化です。
言葉の構造上では、必ず、融解+合体=融合は成立するでしょう。
しかし、融合させた結果が化学反応すれば、
融解させて合体化には、元の要素・要因は消滅することもあります。
したがって、融合とは必ずしも、二つの要素が残るわけではなく、
化学反応としての融合があることも認識条件だと考えています。

『PCメガネはドライ・アイ対策でなければいけない』


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「後世への最大遺物は熟考すべきこと」


   


     7月 21st, 2011  Posted 12:00 AM

「後世への最大遺物」
内村鑑三の著作があります。
彼はキリスト教徒の一人です。
私がこの著作を読んだのは、
交通事故被災で入院していたときでした。
入院中はひたすら読書をしていましたが、
その時、最も驚愕した書籍でした。
それは、私の予測を遙かに討ち揺るがす、
ある意味では私自身への事件だったと思っています。
まさか、自分の生涯において後世に残す物の第一番目、
それが「お金」だと書かれています。
彼が後世への遺物として残すべき物のことが、
講演記録が著作になったものですが、
「なぜ」と考えさせられてしまうからです。
確かに、お金の効能はとめどなく大きいことが確実です。
今般の大震災にあっても、せめて寄付・義援金を考えました。
そして100億円を寄付した人物や、
スポーツ選手やタレントさんたちの寄付金額を知ると、
如何に自分にはそれだけの蓄えが無かったことに、
あらためて自分自身への無力さで愕然となります。
さらに職能家としてデザイナーにはとても高額な寄付、
それが不可能かを思い知らされました。
無論、だれか同業者でも高額な寄付をした人がいるでしょう。
こんな寄付すらできない自分を情けなく思っています。
誰もが「お金」の効能は間違いなくあることは知っています。
内村鑑三もこのことを最大遺物として述べていますが、
それ以外にも最大遺物が何であるべきかを決定しています。
それでも私なりに、今般本当にわずかな寄付をしましたが、
ただしそれが政府系に渡った途端に、
それは被災地に届いていなかったことには怒りを覚えます。
現政権の無能力さを書きとどめておかなければなりません。
以後、それなりに出来るだけの寄付をと考えています。
そして、それは直接、被災地の県、市町村宛が確実です。
人生において自分の最大遺物をどうするべきかを、
私もそろそろ準備をしなければなりません。
この著作には、当時は評論家と言われた人の名前があります。
しかし、今となってはそうした評論家の言説も名前も不明。
著作にも彼らの名前すら歴史には残らないと書かれています。
是非とも、一読をすすめます。
生涯において何を残すべきなのかというのは大きな問題です。
父は私に「美田残さず」と言い続けていました。

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