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Posts Tagged ‘傷つける’


『現代の刀匠から刃物の伝統工芸品は無駄、警棒にもある』


   


     10月 27th, 2019  Posted 12:00 AM

今では刀剣類は人気の高い美術工芸品になっています。
鎌倉時代は、ビッカース硬度は63以上で、
江戸に入ると伝統的となり、現代の刀匠でも美しさはもちろん
切れ味も評価に相応しい「品格あるモノでは無い」と思っています。
要は、刀剣から伝統工芸品でも、間違いがとても多いのです。
そして今や刃物は様々な種類どこでも入手でき、
使い方次第で人を傷つけるモノにもなります。
また日本は「性善説」を信じ望む反面、「性悪説の社会」になっています。
これを裏付けるのはメッセージ、写真、動画による
SNSが大きく関わっています。
自然災害、人的災害、犯罪への対策、防災、防犯と
身を守る意識をどんどん高めないとだめでしょう。
家の防犯は名古屋にいた頃はセコム、
今は大阪ガスセキュリティサービスです。
警備会社の人たちは駆けつける時、
警戒杖だけで対応していますから、私も色々と試しています。
銃刀法では、5.5cm以上では、持ち歩いてはいけないので、
刃物の産地とミニナイフのデザイン、
最近は新たな刃物づくりをを色々試作しています。
車いす利用者の私でも警棒は45cmまで使えます。
オートマチック警棒(右下)は、
握力に問題なければ簡単に伸ばすことはできましたが、
もとに戻すことが困難でした。
「棒術」を教えないといけないとすら考えています。
また、日教組は「戦争」とか言い出すでしょう。


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『武器も兵器も、戦争ではなくて「スポーツ」である』


   


     8月 3rd, 2019  Posted 12:00 AM

戦争という言葉だけで、特に日本人は大嫌いです。
様々な技術開発が戦争の武器や兵器となることは当然危惧しています。
同時に、デザイナーとして武器や兵器には
造形と技術の知識に、ダ・ヴインチの如く関心を持って見ています。
知識と発想がなければ開発することも、正しく有効利用することも、
問題解決することも、平和的利用にもつなげられません。
「戦い」はそれこそ戦争ではない勝敗で、
新しいスポーツ化されないものかと考えています。
サッカーの起源が、戦争で勝った敵国の将軍の首を蹴って
祝ったことからとされていますが、
今はその競技には行き過ぎた行動を伴うほどに
血が騒ぎ熱狂を持って楽しむスポーツです。
そしてスポーツ選手は、英雄になり多くの人達に、
感動や勇気を与えています。武術や武道も戦闘法から、
その型の美しさや技の強さを競う勝敗をつける戦いとなり
身体と精神とも自分との闘いにより磨かれ、
その道を学び、極めていきます。
空手などの美しい動きの型はロボットの動きにも転用されています。
例えば、伝統工芸としての打刃物、刀剣も、
武器から神格化までその時代で役割や技術その継承が重ねられています。
日常の道具としての刃物も武器になる、人を傷つける可能性をもつ以上、
それを産み出すモノづくりには、
「生」をかけて、取り組まなければなりません。
結構な刃渡りの刃物をどこにでも持ち運んで使いましょうという
軽快なコンセプトでスタイリッシュなデザインされた刃物ケースは、
素材も相応しくなかったけれど、県か市のデザイン賞が与えられており、
銃刀法も知らずに「馬鹿が選んでいる」と想像がつきました。
話は展開してしまいましたが、
さて、コレはまた進化している「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦」です。
「そして私は、戦争ではないスポーツとして、
その駆逐艦を考えていた男がいた」と言われたいです。

駆逐艦


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「資本主義からの逃走」
     「心を諳に、そうして意は巡る」


   


     1月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

音と言と諳記
「音」と対称する言葉。
それは「言」と言われてます。
そして、この二つが心の中に存在。
それが諳誦の「諳」ということになります。
現代表記は「暗誦」になってしまいました。
漢字表記が表意性よりも表音性で変えられていますから、
いわゆる旧漢字が無くなって、本来の「意」味が変貌してしまうのは残念なことです。
漢字を確認するときに、旧漢字との照合は大切なことだと思っています。
さて、「音」は、口内に刃物が向けられているがゆえに、
明確な発音ができない、「もぐもぐ」した発音になります。
「音」には明確な発音の言葉性はありません。
しかし、「言」は、その刃物をはき出したように刃先が外に出ています。
したがって、言葉は刃物のように明確で、
その明確さ故に人を傷つけるということにもなるのかもしれません。
言葉は人を傷つける性質はここにあるのでしょう。
「音」と「言」は対極であり、対称性があるということです。
「諳誦」とは、諳記=暗記するために、
まだまだ明確でないことを意識化していく作業と考えることになります。
諳から識へ
「意」は古代インドでのmanasや英語でのmindに表れているように、霊性や生命性から、
やがては仏教や哲学の基本「識」(=vijñ ā na・ヴィジュナーニャム)につながっていきます。
その前提に「諳」が意の中で巡り巡っている気がするのです。
結果、「意識」が形成されて、私はこの意識の存在が「生」ということだと認識しています。


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