kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘体裁’


「『ノンカラー企業』と名辞:ブラック企業と同等の社会悪」


   


     9月 20th, 2013  Posted 12:00 AM

派遣社員が国内の大主力企業で格段に増加しています。
彼らの存在が企業の主体実力なれど、
正社員たち自身は企業病の蔓延にも気づきません。
長時間労働、無賃残業、休日出勤、やがて過労死という企業。
このような事態の企業を「ブラック企業」と呼び出して久しく、
にも関わらず、体裁を「デザイン」で装飾しています。
一方、決して「ブラック企業」ではありませんが、
「デザイン価値本質」の置き換えで誤魔化し企業があります。
私は、このような企業を「ノンカラー企業」と呼び、
こうした企業経営者のノン美学性に呆れています。
初めてこのブログにこのことを記載しました。
このようなことを言葉にし、経営者にも真正面に向かうために、
デザイン企業としての存在は「怖がられます」。
現代、正当性が軽んじられます。反発が怖がられます。
しかし、好き – 嫌い、虚 – 真、損 – 得に、
デザインの本質はサンクションを明確化します。
サンクションとは、賞罰の価値決定です。
私はブラック企業裏側の新興宗教背景が制度観形成にこそ、
わが国企業存在の最大欠点だと確信しています。
「ノンカラー企業」のデザインは、
あくまでも装飾、加飾、粉飾の手法に汚れていますから、
商品はどう評価しようがインチキだと断定します。
デザインは正悪・賞罰のサンクションですから、
いわゆる「イノベーション」はその訳語=革新ではありません。
シュンペンターが「社会階級論」で提示したコンバイネーション、
これはその最終結論が、景気循環はある種の企業錯乱状況であり、
その状況回復は、モノの体系と新制度体系の創出となっています。
私は無論「ブラック企業」の絶滅と同時に、
「ノンカラー企業」も絶滅させる制度設計の真実美デザイン、
この絶対的必要性を訴えます。


目次を見る

『資本主義からの逃走』
   「綺麗事が慈愛資本になることを確認する」


   


     7月 2nd, 2010  Posted 12:00 AM

「綺麗事」
「慈愛」という「優しい」感性論を私は述べてきました。
まさに、「綺麗事」です。
むずがゆくなるほどの「綺麗事」です。
しかし、「慈善」という制度となっている社会的演技性は全否定しています。
「慈善」というのは「綺麗事」ではありません。
もし、慈善事業で私が認めるのは、
その資金を提供することと、町中を掃除することぐらいでしょうか。
「綺麗事」というのは、まず「綺麗にする」コトが前提です。
この前提は、形容動詞の行動だということです。
「きれいな私になりたい」という女心、
最近は男性も「きれいになる」ということが具体例です。
しかし、「綺麗事」は辞書的には三つの意味があると定義されています。
1. 表面だけを取り繕って、見かけや口先だけ、体裁を整えて見せること。 
2. 手際よくきれいに仕上げられた仕事  
3. 自分は汚れないで済ませられること。  
こうした定義から、むずかゆさを覚えるのは、
体裁づくりや、自分が免れるようなことをも「綺麗事」という意味があることです。
私の本命的な意図は、
 ● 手際良さ 
 ● 美しさを呼び込むために綺麗にする意志
 ● 仕上げが充実していること 
この三つです。この三つをデザインの目標にすることです。
いわば、「綺麗事」を口にするときに覚える体裁や
自分逃れっぽさを全否定する清々堂々とした態度が「綺麗」であることです。
デザインは「美しさ」を目的にしています。
偽りや体裁づくりではありえません。だから、正に「綺麗事」の中核を創出することです。
たとえば、理想主義の思想は「綺麗事」です。
それも抽象的な表現に傾く傾向があることは否めません。
だから、政治も経済もその思想には、体裁や見かけでの誤魔化しが横行します。
けれども、デザインで具現化されたモノ・コトは、
まず、綺麗かどうかの判断評価があります。
清々堂々・正々堂々
もし、体裁デザインであれば、それは即刻否定され、デザインされた価値を剥奪されます。
デザインは正直です。
その正直さに「慈愛」が込められている「綺麗事」が真正面的に評価されることです。
「綺麗事」への信用と信頼をデザインが発信し、
「綺麗事」という社会的評価が正当でなければ、そのデザインは全否定されることになります。
デザインが創出する「綺麗事」こそ、
「きれいな社会」から「美しい世界」へという道程にほかなりません。
私は「綺麗事」を正々堂々と表現伝達する職能がデザイナーだと思っています。


目次を見る