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『バウハウス展をワイフは、そして私は?』


   


     8月 4th, 2020  Posted 12:15 AM

2020年7月28〜30日、私とワイフは東京でした。
私は「日本文具大賞」の審査会があり、
丁度、東京駅のステーションギャラリー開催中の
開校100年の記念巡回展である「バウハウス展」を
ワイフは見ることができました。
私は展覧会には行きませんでしたが、当日は
午前中の地震通知やらでホテルがうるさくもありました。
事前のチケット予約で「1時間の鑑賞」、という
コロナウイルスのためのルールでした。
私には思い入れがあり、美大時代は、各課題の提出物のタイトルと名前を
バウハウスの文字で「切り抜き」して常に提出していました。
しかもインレタは高くて、自分で制作していたのです。
すでに蔵書にはバウハウス関連の最高の著作など一杯あります。
かなりのデザイン知識を持っていますので、
私に教われば済むのではとも思うのですが、最近は嫌らしいのです。
ワイフは自分の授業のために
「どうしても本物」が見たいと時間をつくりました。
実は、私は京都工芸繊維大学 美術工芸資料館での
バウハウス関連の展示を
見ていました。1988年度のことです。
東芝の初めてのデザイナーで、あの炊飯器を作った岩田義治氏が退職して、
母校の京都工芸繊維大学教授となり、
「見に来れば」とお誘いの電話をもらいました。
岩田さんからは東芝時代、企業ルールを逸脱する私に
「会社辞めろ」、呼び出しをくらい、「絶対に嫌だ」を
そんなことが3回はあった仲でした。
福井からカマロを運転していて、日帰りで見にいきました。
「どうだ?」と聞かれたので、「正直に言えばつまらない」。
「やっぱりな!、もう一つ部屋を見て行け」。
それはびっくりしました、まさしく東芝のプレゼルームでした、
(これを見せたかったんだ)
「この部屋は大学でも最高だといわれている」と。
バウハウスで、グロピウスとパウル・クレーの喧嘩が最高ですし、
モホリ・ナギの光と映像は、今のホームページに通じていて、
彼の図表関連がとても大切です。
カンデンスキーをどれほどナチスから守ったかも語るべきところです。
ミース・ファンデル・ローエは、米国に亡命しましたが、
今回東京に出る前日のShip of the Yearのオンライン審査では、
その弟子である日本設計の名誉会長と一緒でした。
その精神や概念は脈々と紡がれています。
金沢美大は
バウハウスの「手仕事」と米国の「アートセンター」が基本です。
さて、もういやというほど、
私は「バウハウス関係著作」を持っていますが、
「えエー?」と感想だったワイフに、
バウハウス資料はようやく役立ちそうです。


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『天衣無縫な時代と社会に活気がある』


   


     1月 8th, 2016  Posted 12:00 AM

美大を卒業すると教授命令で東芝に就職しました。
教授は他企業は認めず、(今ならパワハラ?、教え子には命令出来ず)
もし他企業ならば卒業させないとまで言われました。
しかし、東芝から始まったサラリーマンデザイナーは最高の日々でした。
サラリーマンではない、ビジネスマンになるならと、
トレーニングを上司達に教えられてきました。
僕を使いこなしていただいた上司達はすべて恩師達です。
にも関わらず、
僕は出張をすれば、ついついその地に泊まり過ぎたり、
遅刻は余りにも多いのでとうとう自由出勤が認められました。
けれども「四番バッター」と言われて入社したので、
ヒット商品は必ず出していたと思っています。
幸いにして、オーディオ分野専門であり「Aurex」のロゴも僕のデザイン。
「Aurex」での僕のデザインは今もオークションで手に入ります。
ほとんど所有しているので金沢21美術館の個展で紹介できました。
現在、東芝は企業として深刻な事態にありますが、
その理由は、顧問をしていたこともありほとんど解っています。
私のようだった東芝マンが当時は存在していたのです。
おそらくこのようなことは決して許されない時代になっているのでしょう。
入社して銀座で飲んでも、社員証でツケが効いた時代でした。
何と言っても僕のビジネスマン的やり方も
なんとなく認められた時代でした。
僕のひらめきは企業ルールをこっそりと変えてしまいましたが、
まあまあ叱られても決着してもらっていました。
電車で通勤すると、時には「電車事故」といってダイヤが変わります。
そうなると、タイムカードに「電故(電車事故)」というハンコを押します。
これをヒントに僕は「バ故(バス事故)」というハンコをモデル費で作成し、
自分だけのタイムカードに押していました。
多分半年目に労働組合にバレてしまい、大説教を受けました。
無論、デザイン部長(電器釜デザイン)にも叱られましたが
発想は認められた、そんな時代でした。
東芝は交通被災で辞職を余儀なくされましたが、つい4、5年前に、
オーディオ事業部OB・OGの「音友会」で挨拶をさせてもらいました。
東芝にはすでに教え子がデザイン部で活躍していますが、
かつて僕が天衣無縫なビジネスマン時代はすっかりと失われました。
入社した翌年「オイルショック」、退社して「バブル景気とその破綻」、
「失われた20年」という日本経済の転落とともに在った時代に、
僕の生涯が乗ってきましたが、
「バ故」というハンコが認められた大らかな日本の時代こそ、
日本が元気いっぱいの歴史を創り上げていたのだと思います。
「天衣無縫」な時代を失うことは、
時代と社会が歪むのだと思わざるをえません。


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