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Posts Tagged ‘デザイナー’


6月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 15th, 2010  Posted 5:30 PM

6月15日 友引(丙申)

私の場合、デザイナーとして
まずは所有し使用してみなければ
納得がいかない。

そうすることが、
自分だったらこんなデザインにしたいという
アイデアの蓄積になる。

『デザインは言語道断』得手


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『資本主義からの逃走』
 「白日夢の幻想が・・・創造に向かうとき」


   


     6月 8th, 2010  Posted 12:00 AM

白日夢
ここでの論理を終盤に向かって収束と集約をさせていきたい。
そうなれば「形態学序説」をもう一度しっかりと読み直そう。
そう思いつつ、
「白日夢」という言葉は明快で明確ですが、
結局は、「うすらぼんやり」しているだけの意味にすぎません。
私も叶うなら、連日、うすらぼんやりしていたくてたまりません。
確かに、私自身デザインに夢中なとき、
それは「緊張」と「白日夢」が交互になっているとも考えられます。
あるいは麻酔でとてもいい気持ちという感覚と同等な空意識があります。
白日夢の中で書き残されたのでは、という小説もあります。
太宰の作品には、それを感じ取ることがあります。
しかし、文章や言葉と対峙している感覚が、
白日夢的になるという体験を私はしたことがありません。
けれども、スケッチにともかく集中していて、
頭の中が本当の空白状況になることはしばしばです。
Morpheusが入り込む
そんな時、私はMorpheusが、私の中に入り込んでいて、
ほとんど空白と空虚の狭間に自分が浮かんでいると、
後で悟るのです。
それから、私はボールペンスケッチに色鉛筆着彩をします。
これはもう夢中になるのです。黒と色彩にのめりこみます。
Morpheusの意のままになっているのかもしれません。
そして、「コレダ!」という瞬間で白日夢から目覚めます。
幻想・カオスから創造
おそらくこの状況・状態は「幻想」の中に自分がいるのだろうということです。
「幻想」あるいは「幻想論」をひとまず纏めたいと思いますが、
それは、すでに「幻想」の否定論になりそうな気がします。
つまり、「幻想」だけに、
「幻想は幻想の中で」、
「幻想には幻想だけを」、とも想っているのです。
幻想×幻想=白日夢=カオスだとするなら、
明快さも明確さも際だっているわけではありません。
パウル・クレーは、このことに浸りきっていたデザイナーだったのだろうと推測します。
幻想こそ、カオスならば、
そこから幽体離脱を果たしたとき、
「ある・かたち」に辿りついているのです。
私は、この瞬間こそ「創造」だと想っています。


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『資本主義からの逃走』
 「Morpheusの白日夢から」


   


     6月 7th, 2010  Posted 12:01 AM

Morphe
昨日は、うろ覚えだったMorphesは間違いでした。
ひたすら、このブログは毎日の思いつきや思い込みをメモっていますので、
くれぐれもご海容ください。
そこで、
Morpheus; Morpheという人物の存在性に、
私の「幻視」あるいは「幻想」を重ねます。
むしろ、彼の存在、その発想を共有したいと考えるからです。
これは幻想です。しかし、妄想ではありません。
モルヒネ
モルヒネ」という麻薬があります。
まさに、その薬名の由来に関わっている人物です。
人物というより、登場人物と言っておくのが正しいでしょう。
ヘシオドスの「神統記」にはギリシア神話からの話があります。
Thanatos=タナトスに纏わる話です。
タナトスは「死」を司る人物(神)となっています。
この兄弟にSomnus=ソムヌス(Hypnos=ヒュプノス)がいます。
ソムヌスは「眠り」を司る人物(神)です。
そしてこの息子に、まさしく「眠り」の中でも、
白日夢
「白日夢」を担当?している息子がいるわけです。
この人物が、Morpheus; Morpheです。
「白日夢」だけに「日中もうつらうつらしている」のです。
この目覚めてもいない、と言って眠ったもいない状況から、
麻薬;モルヒネという呼称が生まれました。
さて、このタナトス、ソムヌス、モルペウスから、
ある幻想的な発想を引き出したのがゲーテでした。
1817年、彼は自費出版した書物というよりパンフレットがありました。
形態学序説
「Morphology Introduction」=「形態学序説」です。
このいわば幻想、あるいは、カオス的な状況から「形態」が生まれるという話は、
パウル・クレーの「造形思考」にまで繋がっているのではないかというのが、
私なりの解釈です。
私は、本来、「形態学序説」こそ、デザイン造形学の定本と考えてきました。
ところが、「形態学序説」は、医学領域で「形態発生学」、
あるいは「形態発生論」に伝統的な連続性を蓄積しています。
これは、「なぜ、内臓の形態が誕生してからある形態に至るのか」ということです。
私はむしろ、デザイン造形すなわち、
「形態造形」はゲーテの発想に大きなヒントがあると思い、
そんな発想論=白日夢的な中でぼんやりと、
観念的、概念的に浮かび上がってくる「形態」を当てはめたいと考えてきました。
前置きが長くなりましたが、
「資本主義」という「形態」から逃走して「どんな次形態」に入り込むべきなのかが、
このブログの考察メモ結果です。
「形態学序説」は「形態学」=Morphologyを提言してくれたのです。
私はあくまでもデザイナーという立場から、
Morphologyという背景を、あたかもMorpheusのように、
幻想から、確実な発想の持ち込みたいと考えている次第です。
私は、このブログの次の下敷きに「形態学序説」を置きます。


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6月06日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 6th, 2010  Posted 9:30 AM

6月06日 赤口 (壬午)

デザイナーの勝手な理屈だろうか。
いや、好奇から数奇へという
展開はデザイナーの自質のはずだ。

『デザインは言語道断』好奇


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6月2日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     6月 2nd, 2010  Posted 1:35 PM

6月2日 大安(癸未)

デザイナーが収集すべき最も重要なものは
「イメージ」である。

これをどのように
保存し、蓄積し、整理をしておくかが、
デザイナーの能力を決定する。

『デザイナーは喧嘩師であれ』収集数奇


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『資本主義からの逃走』
 「# iPad静電スタイラス自作奮闘 ・1#」


   


     5月 26th, 2010  Posted 1:40 AM

iPad Sketch
iPadでのスケッチは、かなり使えそうです。
今、国内で市販されているモノは2種確認しました。
高額ですが、正直使えませんね。
この2種は、デザイナーとして認められません。
私は一端熱中すると、特に、自作は留まりません。
なんとか、ペン回し協会公認のボールペンで、
それなりのモノを最初に造りました。
ともかく、導電素材として、
● アルミホイル
● 導電シリコン・発注中、すごく高価です。
● 導電ウレタン・発注中
アルミホイルは、
ゴム付き鉛筆に巻き付けるだけで、
なんとか工夫すれば使えそうです。
要は、静電スタイラスにすることでは、
導電ウレタンが市販製品もこれを使っていますが、
描き心地では、40年間の「ボールペンタッチ」がほしいこと。
さらに、「ペン回し」ができないのは駄目ですから、
これからトライして、
絶対に、iPadでのスケッチが可能になればと思っている次第です。
導電シリコンをチップ材にした描き心地に一番期待をしています。


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『資本主義からの逃走』
「三大観念である物質系デザインはエコロジーの具現化か?」


   


     5月 22nd, 2010  Posted 12:45 AM

世界観としての物質・情報・エネルギー
私は「物質・情報・エネルギー」が世界観だと考えています。
そしてこれらをまさしく、歴史的な世界観と照合させます。
五大思想や五行説、あるいはインド的三大(火・水・土)です。
「物質・情報・エネルギー」この三大世界観を日常化するには、
この三大世界観、私なりには、世界の構造軸、
その要素と要因を意図しています。
物質
物質というのは、物ですから自然物から人工物全般です。
私はこの中でも人工物=モノと表現しています。
デザイナーとしては、このモノ=人工物を中核にしています。
本来なら、自然の中での人工物ですが、
私は、デザインするモノ・デザインされたモノが、
自然との関係と人間との関係、すなわち世界観の構造というわけです。
自然物が当然、世界観の基本ですが、
私は、人工物=モノから自然を見ていると思っています。
エコロジー
このまなざしゆえに、たとえば「エコロジー」という、
ある世界観へのまなざしには慎重でありたいと考えています。
とりわけ「エコ」ブームには懐疑的になっています。
「エコプロダクト」という呼ぶ方に集合されているモノのデザインに、
「デザインの本質性」があるのでしょうか? 正直、無いと思ってます。
いづれ明快な回答と解答を書くつもりですが、
現在、「エコプロダクト」という商品で、
デザイナーとして納得できたモノは有りませんでした。
なぜなら、人工物=モノと自然物=もの・物,
この二つは対決せざるをえない構造を持ち合っていると判断するからです。
もし、世界観における「物質」系=自然もの+人工モノは、
調和・ハーモニーと均衡・バランスの相互性が必要です。
したがって、モノとものという「物質」系は、
ハーモニーとバランスという相互作用性がデザイン対象意図だと判断しています。
ただし、調和とバランスには、反発構造や対決と融合・融解までの幅もあるわけです。
あらためて「エコロジー」という言葉の由来、
そして生態系バランスのあり方を見直す必要があります。
デザインが世界を変える
「物質系」世界観の最適解としてのデザインこそ、
「デザインが世界を変える」ことになります。
「世界を変えるデザイン」というのは、
本質的な論理性が実は壊れているのです。
このことに気づかないデザイナーには、
デザインの本質がまるで見えていません。
もっと基本的な「世界観」・観念論的哲学の基本が必要でしょう。


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『資本主義からの逃走』
「 iPadを見つめて、かたち・きもち、そしていのちへ」


   


     5月 20th, 2010  Posted 1:11 AM

いのち
このところ私は、自分のデザインでも無いモノについて、
論理展開など無関係なスケッチ的エッセイを書いています。
というより、「吐露」していると受け取ってください。
20世紀、ほぼ50年を共時しました。
おそらく、自分の生涯は、20世紀後半から、
2049年(この時100歳)までの「いのち」を考えます。
この歳まで生きられるのか!なんてことも、
「憎まれれば」ですから、確実かもです。
ともかく、私はデザイナーという職能で生きてきましたから、
「かたち」を創ることを最も目指してきたことは自負できます。
そして、「かたち」・「きもち」・「いのち」という言葉に
自分の観念も概念も入れ込みながら、「形態」にしていくことでした。
様々な「形態」をデザインしてきました。
当然、自分のデザインしたモノが、何ゴトかに連続していったり、連鎖すること、
こうしたことは自分で語るコトは充分に可能です。
しかし、「時代を革新する」という明確な認識のモノについても、
語る義務があると考えてきました。

ささやかな義務とささやかな権利
それは、「創る」、「デザインする」という姿勢を保持しているからこそ、
それを義務と考えることにしているのです。
なぜなら、職能義務を尽くしきることに徹する姿勢や態度に懸命であれば、
必ず「何らかの権利」が「与えられる」ことを経験してきたからです。
今夜は、iPadをデザインしてきた人物自身から、
デザイナーとして、iPadでのスケッチ、その最良の方法を聞くチャンスがありました。
それは、私が危惧、つまり自分はその手法をマスターできないかもしれない、
そんな想いをいっぺんにかき消してもらえたのです。
つまり、そんなことを聞ける権利が手に入ったということです。
明らかに、「現代」は、まさに「今日」は必ず「明日」に繋がってほしいのです。
そして、明日は今日よりも素敵な1日であってほしいのです。
iPadの「かたち」で「きもち」がどう動くのかということでしょう。
サクサクと動くのか、
ザワザワと動くのか、
・・・・と動くのか、ということが「大切」なコトです。
たかだか、その程度の義務で、
スケッチの描き方の権利を大仰にと思われるでしょう。
しかし、デザイナーとしての「きもち」は、
そんなささやかなコトが私の「いのち」に直結しているのです。
確実に、新たな体験として、iPadでスケッチを描ける自分になること。
その「きもち」が、これからの「いのち」を日常支えてくれるでしょう。


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5月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     5月 17th, 2010  Posted 11:50 PM

5月17日 先勝(丁卯)

デザイナーは最初に
想像図を描くことから、デザインを始める。

それは、想像したモノを
透視図に配置することである。

『プラトンのオルゴール』
デザインは見識と良識の投影


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『資本主義からの逃走』
 「信号と記号は光線上にあるかもしれない」


   


     5月 14th, 2010  Posted 12:01 AM

S/N
アナログ時代、オーディオ評価には、S/N比がありました。
それは「信号=Signal+Noise」だったからです。
1960年ビートルズの登場と、
同時期頃カセットテープが音楽メディアでした。
デザイナー成り立ての頃
カセットデッキのデザインを担当して夢中だったのです。
その当時、技術陣はいつもS/N比の話で大変でした。
そして80年代直前頃、デジタル時代技術へ大転換が始まりました。
デジタル時代が呼び込んだ主軸がコンピュータだったという見方が可能です。
さらに、コンピュータは「記号」、
その一つがアイコンという表現になったということもできるでしょう。
信・記
さて、信号の「信」は人+言語であり、
記号「記」は言語+人(跪いている形象)ですから、
言語を受け止めています。
70年代後半に、「記号論」や「記号学」が提案され始めるのです。
「記号」という言葉が道元の発案言葉説もあります。
これは日本記号学会発足誌初版にそんな論文がありました。
A/D・D/A
私が、この「信号」と「記号」の組み替え技術が、
アナログ(信号)からデジタル(記号)へ=A/D ?
デジタル(記号)からアナログ(信号)へ=D/A ?
これらを、私は、現代性に配置して見ている気がしてなりません。
「気がしてならない」と、いう私の想いを書き残しておきます。
なぜなら、今、信号も記号も、それらは光線上に、
あるいは信号の光、記号の光なるモノがある気がします。
● 信号的な発想ができるだろうか、
● 記号的な発想ができるだろうか、
このところ、私に与えられているデザインテーマを熟考するとき、
この二つを交互に、相互に、対決させている気がしてなりません。
「信号」と「記号」が「光」になっている。
そんな「あかり」に包まれて考えている自分が居ると思っています。


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