kazuo kawasaki's official blog

Posts Tagged ‘デコラティブ’


『トリックスターになってやる。』


   


     5月 19th, 2016  Posted 12:00 AM

メガネフレームのデザインに関わっておそらく30余年もやっています。
それはそれなりの自負はあります。
一方で、雑誌評論のレベルそのものは年々低下。
所詮は「流行・ファッション」で
デコラティブなモノもデザイン扱いされます。
これ実はワイフのコレクションで、
「メガネ」モチーフのアクセサリーです。
このアクセサリーに眼鏡をつるせます。
ところで最近は「モンスター老人」とかで、
老人はすぐにカッ〜となるとか。
そうです。私も明らかに「モンスター老人」ですが、
「モンスター老人を超える人物」が目標です。
そういえば、父は本当に穏やかでした。
若いときに「川崎さんは、あの人の息子さん?父上は本当に穏やかな人」、
なんて言われると(こいつ、怖がっているならもっとだ)と演技しました。
この演技力は磨きに磨きがかかってきたと思います。
自分が生涯をかけて取り組んできたことを破壊されるなら徹底的に、と
相当に「超モンスター化」、これをトリックスターと言いますが、
これに徹した生き方をしなければなりません。
実現しない研究が異次元空間である大学には蔓延しています。
それは私自身も大学でつぶさに見てきましたから、
実務性の無い「産学共創」などは
税金の無駄遣いであることがすぐ傍らです。
そしてデザインなど、
ましてデザイナーなどがどれほど軽く扱われたかを
すべて書いて告訴すべきことだと認識しています。
何の役にもたたないロボットや医療機器はすべて論文のなかで、
研究権威だけが「有識者」扱いされているにすぎません。
実務としてどれだけ多くを輸出品として不成立だったでしょうか。
この自負心でトリックスターとしての
「超モンスター化」をねらっています。
メガネフレームの競争相手は1社のデザイナーだけです。
不細工なメガネをしていると(嗤ってセンス無し)と思っています。

*『センスの有無?は、香りか臭いかだと思う』
*『四十暗がり・シニアグラスがこれでいいわけがない!』
*『低レベルな能力でデザイン評価はしないでほしい』
*『乳牛は決して美味しいミルクを絞り出すわけではない』
*『デザインというスタイリングの二種類』


目次を見る

『資本主義からの逃走』
 「『付加するデザイン』は、デコラティブデルージョン」


   


     7月 25th, 2010  Posted 12:00 AM

デコレーション誤解
デザインの勘違いを40年間膨大に観てきました。
私は、デザインとデコレーションとを分別しています。
また、「これ、本当にデザインかな?」と思っていた人に、
「あれはデコレーションです」と言うと、
「なるほど!」と理解していただける人は確実に増えてきました。
デザインとデコレーションとは、なかなか区別できない人が多いのは、
「デザイン」という言葉は洋装が日本に入ってきた戦後であり、
同時期には「図案」や「装飾」がデザインと邦訳されたことに起因しています。
ファッションという言葉も同様です。
そして、必ずしもそれは間違いだと断定できない意味もあります。
デザインはファッション、というのも否定的な意味もあり、肯定的な意味もあります。
過飾的妄想
したがって、私自身は、デザインとデコレーションについては、
装飾そのものを否定するわけではなくて、
問題解決というデザインの本質に装飾が必然である場合は、これは容認しています。
しかし、加飾=装飾を施すこと、過飾=加飾いっぱいにすることは
華燭を越えた装飾し過ぎていること、
すなわち「不必要で実用性も無く、
商品の存在性を事大主義的に誇張すること」をデコラティブ=decorativeとみています。
ところが、このデコラティブであることを妄想的=delusionにまで拡大していることを、
「デザイン」ということは、目に余ります。
確実に「デザイン」の必要性が訴求される時代です。
だから、加飾・過飾・装飾が虚飾化された過飾的妄想=decorative delusionを
デザインというのは、見過ごすことはできません。
これを直感的に判断して否定する言葉が、
「simple is best」というパロール=会話文節も正しい見識ではありません。
デザイン系を有さない大学や行政などには、この認識が蔓延しています。
デザイナーとしては「視覚的・認識的に痛い」とすら感じる
ポスターやパンフレットがあふれています。
これらは「付加」されたデザインですが、デザインの妄想にすぎません。
デザインが妄想の中にある人は増加しています。
特に、経営者、技術者や社会学者や経営評論家が「デザイン」を語るとき、
この過飾的妄想=デザインとなると困惑します。
デザイン行政の担当者で、
「デザインを見下して、あたかもデザインの定義」として語られるときは、
見過ごすことは私には不可能です。
デザイン価値の美学性
「過飾的妄想」が社会に存在していることは、
ある種のサブカルチャーだということも私は理解することができます。
これは「一過性的」であって、連続している騒音的なことですが、
文化の一面であることも否めません。
文化は確かに玉石混淆です。
が、デザインの純粋性にのみ、「デザイン価値の美学性」を私は求めたいと考えています。
私がデザイナーとして育成したいのは、less is moreをしっかりと確認できる資質です。


目次を見る