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「謝罪するあいさつを再考」


   


     4月 6th, 2011  Posted 12:00 AM

昨日大阪市内に出てみました。
関西はいつもながらの風景でした。
同じ日本列島にあって、
被災地との歴然たる光景の違いを思い知らされました。
TV報道やYouTubeでは本当に涙すること多く、
震災以来毎日、胸がしめつけられます。
卒業式での答辞、被災地の人、さすがに東北人の強さ、
6日も津波で流されながらも飼い主の避難所まで生き延びた犬、
どれだけの「哀しみ」を携えながらも、
そこから立ち上がろうとする人々に、ただ感動しているだけです。
私たちは、この本当にすぐに揺れ動く列島船の乗り組み民族です。
考えつくすことは、真剣に「なぜ」という問いかけばかりです。
結論が正解とは限らないことに突き当たります。
「正しいこと」はやはり不明なのでしょう。
私は「応答」・「回答」・「解答」を使い分けてきました。
特に「応答」については、
「すいません」、本当は「すみません」
「申し訳ありません」、
この二つについて考えさせられます。
すみませんは感動詞です。
申し訳ありませんは、申し訳の有無です。
子供の頃は、すみません・申し訳ありません、という言葉、
いづれも日常語ではつかいませんでした。
「ごめんなさい」という謝罪会話ことばを覚えました。
そのことばを使っていました。
大人になって、
すいません・申し訳ありません、これは日常的な言葉です。
子供の時には、三つのことを教えられました。
  ●「嘘はつかない」
  ●「迷惑はかけない」
  ●「あいさつを必ずする」
そして、こうした教えを守らなければ、叱られます。
そうしたら必ず「ごめんなさい」と泣いて謝りました。
私は教育者になるとき、恩師から、
「叱る」ことと「怒る」ことを使い分けることを教えられました。
今、私たちは「怒っています」。
なぜなら、社会的なエリートはこともなく、
嘘をつき、迷惑を平然とかけ、今では世界に迷惑をかけています。
あいさつは、損得勘定でしかしません。
私は、こうした日常語の言葉、
日常語であるべき「ことば」を自分自身にも自問し直しています。
企望しつくして祈望しますが、
かなわなかったら、本当に心から「ごめんなさい」ですが、
私の企望が許されなくなる事態にならないよう祈望する毎日です。

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