4月 13th, 2009 Posted 11:00 AM
なんだかここまでマルクスの事を記述してくると、
私はまるでマルクス全否定論者のようになっている、
と感じている人もいると思います。
しかし、そうではありません。
思想として、「資本論」を受け入れるわけにはいかないだけです。
そして、マルクスについては、
生涯かかっても読み切れるはずもないほどの著作が氾濫していますが、
大きな間違いにはうんざりします。
たとえば、マルクスは数学が大の苦手だった、
というのは間違いでしょう。
苦手なら、「数学ノート」を作ってまで、
それをエンゲルスに説明用とまではしなかったはずです。
確かに、「資本論?」では、
数学的な記号での、特に「貨幣論」が展開されますが、
さほど高度な数学的な論理にはなっていないことは確実です。
もっとも、「資本論?」からはエンゲルスが書き残したと言われています。
いわゆる「経済学」の大きな根幹、要素には
「貨幣」の意味、「貨幣」の運用、「貨幣」のサイクル性が取り上げられます。
ところが、マルクスの時代には想像外、想定外のことが
世界の「金融要因」が発生してくることです。
想定外は、三つあると私は思ってきました。
さらに、「要因としての金融」と「金融とサービス」が
これからはさらに変貌することが想像可能です。
ともかく、その三つをあげておきます。
■ 「クレジット」信用を「カード」化
これは「クレジットカード」というプラスチックマネーの登場です。
■ 「貨幣」は要素ではなくて
「要因としてのスピード」はまったく想定外だったこと。
■ 「金融サイクル」は計算ではなくて、
「金融演算」、すなわち、コンピューター上でのサイクル性は、
即、「景気」連動につながった。
私はこの三つは、マルクスの「資本論」の想定外だった。
しかし、金融工学の根底には
やはり「資本論」がその基盤を構造化していたことは認めているのです。
この4月に、ある金融機関・銀行の「入行式」で記念講演をしました。
これから、金融業界・銀行人になる人たちに
「時代とともに働く意味」という話をしました。
この講演の根底では、確かに、私の金融への想いには、
マルクスの『資本論」があったことは確かです。
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4月 3rd, 2009 Posted 12:00 AM
「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。
使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。
マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。
「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。
保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。
別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。
明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。
だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。
高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。
なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、
「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。
階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。
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3月 31st, 2009 Posted 10:00 AM
「四句分別」というMATRIXは、MANDALAとして、
一つの概念が単純に8つの概念で取り囲まれると私は考えるようにしています。
それは、概念を核心とする概念機能、
あるいは概念の機能性や概念感覚を把握し認識するための条件と考えているからです。
まさしく、曼荼羅に描かれた仏像の機能と言っては言い過ぎかもしれませんが、
人間の思考は「ことば」に、特に、その概念があらわす
夢・願望・期待・理想を表しているという仮説を私は持っています。
そして、これを、私は「ことばとかたちの相対性」と呼んでいる思考の構造化にほかなりません。
そこで、「使用」ということをMANDALA 図に載せて分類をします。
それは、どういう「使用」というのがあるのか、
ということをともかく配置してみるとその構造=関係が見えてくるのです。
「核概念」の上部には上位概念が左右に並びます。
そして中心と左右は同等の重力を下位概念に上下にわたって及ぼしているのです。
さらに、「核」・中心に対しての対立やあるいは対位性は、
中心感覚を平衡化するバランス感になっていくものだと考えています。
まずはじめに、「使用」を中心、「各概念」に配置します。
そうすると以下の図のような、「使用」の目標や目的、そして効果が視えてきます。
「使用」を取り囲んでいる8つの「ことば」に対する意味とその「感覚」は、
そのまま「使用観」という世界図象として、
私たちの感覚を世界観として成立させているのではないでしょうか。
たとえば、「使用」するというのは、
急用もしくは専用のために採用することから始まっているのだと考えてみることができます。
採用感は採用するための自分の世界観だと考えれば、
その「使用」の「価値感」=「価値観」ということで、
個人的な感覚、私だけの感覚であっても、それを一般化させることも可能になるわけです。
つまり、「使用価値」がどのように分解されて、
なおかつ統合と集約を、それぞれの概念価値として要素化、
あるいは要因化しているということになるわけです。
ただし、この曼荼羅図は、あくまでも二次元での仏像の配置です。
そのアナロジーとして、MANDALA図に「ことば」その「感覚」を配置してみました。
本来は、仏像界という宇宙観は多次元空間での存在にほかなりません。
それは、「ことば」もその発信性や意味論は
宇宙観にただよっている感覚にすぎないと考えることが出来ます。
平面界での配置であることも注意をはらっておきたいと付け加えておきます。
結局、世界観は私は3次元から多次元化していることをすでに知識として認識しているからです。
それは、「価値観」あるいは「価値感覚」は
多次元化された時空間に存在しているということになります。
問題は、この多次元的な「価値」、ここでの「使用観」は、多次元的に時代が変容させたからです。
すなわち「多様化」している「使用価値」へと拡大と収束が起こっているということです。
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3月 27th, 2009 Posted 8:13 PM
「所有観」と「使用観」という二極分類を融解してみたいと思います。
「四句分別」のMATRIXに「使用」と「所有」の二極を配置してみましょう。
それは、「使用中心の所有意識」と「所有中心の使用意識」という領域が、
必ず、意識上に存在していることになるのです。
これが、東洋的というか、日本的な融合感覚ではないでしょうか。
この「分別」こそ、現世公案的な悟りへのアプローチとなっていたのです。
現在、この日本的感覚が押しつぶされてきたことを思い出す必要があると私は考えています。
乱暴な言い方をしておきます。
つまり、1970年代初めに、「脱・工業化社会」、「ポストモダン」、
そして「意識化社会」という予測論が出てきました。
これは、「情報化時代」、「情報社会」が到来することの確約された予測論だったのです。
しかし、その内実が構造化される外因は
すべからくオイルマネーによる金融支配構造に資本主義そのものが、
まだまだ進展していくという幻想、いや妄想が生まれてしまったのです。
具体的には、私はデザイナーとして二つの現実を見てきました。
石油文明をあくまでも維持しようという石油資本家たちの支配構造から脱出できませんでした。
これを裏打ちする事件も歴史的な事実となっていくのです。
この指摘はいづれ書き残すつもりでいます。
とりあえずまずは、「電気自動車の開発と実現」がずーっと拒絶する
大きな支配的な政治力が温存されていたということです。
そこにコンピューターやネットワークという技術革新=イノベーションが覆い被さってくるのです。
「イノベーション」は、オーストリア出身のJ.A.シュンペーターが、この言葉を提示しました。
さらには、「資本主義の崩壊」までの思想を登場しているのです。
このことについては、いづれ後述してまとめておく必要があるでしょう。
そして、これは、コンピューターテクノロジーあるいはインフォメーションテクノロジーによって、
そして資本主義が強化されたがゆえに、この妄想が正当化されたものと判断せざるをえません。
即、1973年にはオイルショックによって、この妄想が一時叩きのめされました。
けれども、この当時のコンピューターはまだまだマシンの段階でした。
ところが、コンピューターがパーソナル化する時代に入ります。1980年初頭です。
それこそ、資本が金融というシステムの中で、
ますます専門家だけが制御できるネットワークになっていくことにつながります。
と同時に、それは「グローバル化情報社会」として、
先進国家にのみ、その資本財の配分、つまり「富の分配」という構造社会になっていくわけです。
この「富の分配」には、
「所有観」と「使用観」が融解して二極性が崩壊していくと言ってもいいでしょう。
私は、これをMATRIXからMANDALAへと変容してきたのだと評価しています。
MANDALAとは、正式には「金剛界曼荼羅図象」です。
この図象に描かれた仏像図とそれぞれの仏像の意味性を私は詳細に語るべきだとさえ思っています。
ここではあくまでも「所有」と「使用」の二極を
多様的な意味を集約するためにMANDALAを応用します。
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3月 23rd, 2009 Posted 12:20 AM
マルクス理論の骨格である「価値論」は、
きわめて西欧的思考で固まっていると思います。
それは二元論での分割では、思考を閉じ込め、
その二元を二極化する正当性だけを信頼してしまいます。
私はこれこそ、思考・思想を信仰してしまう危険性があるのだと指摘しておきます。
私は、この論理構造は、東洋的、仏教、その禅宗的思考によって、
一端、溶解すべきだと提案しておきます。
私のふるさと福井には、永平寺があります。
この永平寺開祖・道元の思想には、二元論を融解する思考手法があるのです。
もっとも、道元自身は、自然体的な思考論であったのですが、
後世になって、「現世公案」という解釈論の手法となった「四句分別論」があります。
この論理によって、二元・二極、その分解と統合化は、溶解と融合を促すことができます。
「四句分別」ということを、
私は必ず、海外の大学で講義する時には、
「現世公案」という思考論を紹介をすることにしています。
なぜなら、デザイン発想でもこの思考方法は発想を促進するには、
とても優れて有効であるということだからです。
ところで「公案」というのは、禅宗用語です。
禅宗というのは、行学という思考を日常から
さらに展望を「生き方」の「悟り」としていく宗教です。
つまり、「ことばの意味」・「自然事象の徹底した理解」・「自然とことばの構造・関係」を
身体化する宗教哲学だと、私は了解しています。
では、簡単に「四句分別」というのは、2×2=MATRIXという図解で
視覚的な援用でより理解が容易くなるからです。
たとえるなら、西欧的なyesとnoの関係です。
日本人は、yesとnoを曖昧にする民族と非難されてきました。
私は、それが「日本的思考の根本的思考」だと再主張したいと考えてきました。
どんな人間のこのyesかnoかという価値判断を求められたなら、四つの評価感覚があるはずです。
■まったくyesである。
■まったくnoである。
■yesだが、noという思いも残っている。
■noだが、yesという思いも残っている。
これらを図解(2×2=MATRIX)してみると「一見して分かる(=分別することが)できるでしょう。
では、この「四句分別」によって、マルクスの「価値論」を公案してみたいと思います。
それは、マルクスを原点としながら、
この思想を現代の経済的な問題解決論としておくことではありません。
「資本論」は「宗教」と断言したからには、
あえて、日本の高密度な思考によって、再構築してみたいと考えるからです。
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3月 21st, 2009 Posted 11:52 AM
たとえば、「車」は、移動手段としての機械=マシンというモノです。
「使用価値」は、移動に使用する内容があるということです。
もう一方では、「車を持つ」という「所有価値」があります。
そこで、「車の形容される内容=価値」と考えてみましょうか。
どうでしょう。
たとえば、私は男としてそれなりに車が好きです。
だから、自分にとって「望ましい車」、
その上で「好ましい車」という基準で車を選別してきました。
これまで何種かの車を「所有」して「使用」してきたわけです。
それは、「車の内容への感覚的な私の満足度」が「車に対する私の価値」でした。
「好ましい」のは、無論デザインそのものであり、
そうしたデザインをするメーカー・ブランド・車種でした。
「望ましい」という「車」は、まだ技術的にも進化してはいないと思っています。
もっとも、男子的には、
それなりに「望ましい」と思われるような車種は「所有」してきたと思います。
今、所有しているのは、ベンツのSL500とベンツのS320の二台です。
キャディラックのロングリムジンを「所有」し「使用」していたこともありますから、
考えてみれば、車への価値的な欲望は、それなりに満足していいのだろうと思います。
そこで、「車」の価値感と価値観を、
本当に、「所有価値」と「使用価値」だけで語り切れるのかというと、
そうでもないことが、20世紀戦後から現在では、
すっかり、「形容詞としてのモノの内容が変貌」しているということからも、
「資本論」での「価値論」は、今日までの省察はできていなかったということです。
「資本論」の想像力の限界、それは、明確にこの論理は確信には至らない思考だったということです。
それゆえ、今、流行として、「マルクスは現代をすでに見極めていた!」なんていうのは、
そう言ってはばからない連中の想像力の貧しさを哀しんでしまいます。
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3月 20th, 2009 Posted 2:08 AM
希望という言葉があります。
その「望」という漢字には、諸説があるようですが、
「望とは、なかなか見えない遠方の物を探し求めている」という意味です。
これは、現代にも通じていると思います。
原意には、つま先立って、満月が今か今かと待ちのぞんでいる、
という意味も、この文字の派生ではうなずける話でしょう。
次に、好意という言葉の「好」はどういう派生の歴史があったのでしょうか。
これは、この文字の形そのままのようです。
原義が形に表れているということです。
「女」の人が「子」供を大切に養育することを表していますから、
女性と子供との親愛関係が反映した漢字と考えていいでしょう。
・
さて、前置きが長くなってしまいましたが、
「価値」というのは、簡単に言ってしまえば、
「望ましい」ということと「好ましい」ということだと私は定義しています。
なぜ、ここまで一段下りて「望ましさ」と「好ましさ」が、
「価値」だと言っておかなければならないかというと、
デザイナーどころか、営業マンであれ、経営者であれ、
「商品価値」をその歴史性から語り切れる人物には出会ったことがありません。
おそらく、「経済学」・「経営学」・「商学」など商売に関する学域ですら、
この「価値論」あるいは「価値観」には、遠望するほどの距離があると思い続けてきました。
ここであらためて、「資本論」がらみで、このことをメモっておきます。
「望ましい」というのも「好ましい」というのも、
言葉としては、「形容詞」です。
だから、「価値」っていうのは、
「形容詞」のいわば人間を取り込んでいる世界観、
その中にあるということが論理だと言っても構わないでしょう。
私が、「価値」は「形容詞で評価されている内容」だということです。
それなら、マルクスが示した「所有価値」と「使用価値」というのも、
「所有している内容を感覚的な形容であり、使用している内容」と言い換えることができます。
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3月 17th, 2009 Posted 10:14 AM
6
マルクスの「資本論」を紐解いて読解するには、とてもいい方法があります。
漫画で見て理解するというのが手早いだろうと思います。
しかし、この漫画は作者の基本的な読解力が基盤だから、
自分の「客観性」をフル稼働させた方がいいでしょう。
それから、自分の「主観」と「客観」を組み合わせながら、
意識化することが大切だと断言しておきます。
「資本論」は、「価値」についての論説が基軸になっていると考えます。
私は、「価値」について、デザイン用語の一つとして定義しているので参考にしてください。
なぜなら、私は「資本論」への私なりの距離感をはっきりとしておくには、
私の「価値」の定義はその一つでもあるからです。
簡潔に言うなら、「資本論」は「宗教」であると考えてきました。
というよりも、私には、デザインが宗教であると言っておいた方が気楽です。
デザイナーという宗教家、いえ、デザインのエバンジェリストだと自称しておきます。
?
さて、マルクスの定義は、当時の「価値論」に縛られています。
「価値」は時代と社会によって、その意味と意義を変容させています。
よって、この変容にいたる変遷を遡及し、
さらに、「価値観」という意識に照合しなければなりません。
そうすれば、この論理の正当性あるいは論理観という意識が、
とりわけ、資本主義と民主主義社会に構造化されてこなかった理由がわかるはずです。
だからこそ、マルクスのすでに定説、あるいは教条的概念は、
「所有価値」と「使用価値」に集約していることを疑うのです。
この「所有」と「使用」が、
すでに、歴史的には、大きく変貌し、変質し、変容していることに
注視しておかなければならなかったことです。
私は、デザイナーという職能以前に、
高校時代にすでに、この二つの価値分類に大きな疑問を抱いていたのです。
そのために、いわゆる「科学的社会主義」が「宗教」だと直観してしまったのでしょう。
そして、デザイナーという職能になって、「所有」と「使用」の詳細をデザイン対象とすればするほど、
すなわち、この職能経験は、この疑いを明確にすることができたとさえ思っているわけです。
この定説化された教条的概念は、
「資本論」そのものをほとんど「宗教的」から、信心する人には、「宗教」になったわけです。
だから、社会主義が「宗教」そのものを排撃したことも、よく理解できます。
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3月 8th, 2009 Posted 12:50 AM
5
このBlogにて紹介しはじめている、「資本主義からの逃走」を初めて、講演をした。
この「逃走」はこれからの「闘争」のアジテーションでもある。
したがって、ふるさと福井で行った。
なぜならば、私のふるさとをまず、変革、改革から始めたいと当初から考えていた。
「場」は講演として与えられた。
「福井県経営品質協議会10周年記念大会」である。
この経営品質協会は、代表幹事が高校時代以来の親友であり、私をいつも精神的、
さらには経済的にずーっと支援をしてくれている玉木洋・福井キヤノン事務機代表取締役である。
この協会を彼がリーダーシップをとって福井県にて活動を開始したとき、
マーク・表彰状・トロフィーをデザインしている。
現在、この不況は、すでに「終焉している資本主義に気づかなかった
オピニオンリーダーや政財界のリーダー(現在の日本には絶滅しているが)たち」の責任である。
したがって、このBlogでは、彼らと時代・社会への闘争論理である。
玉木(親友ゆえこう呼ぶが)は、すでに10周年からこの協会活動を「福井県独自性を目論んでいる」。
彼は、「変革より、変質だ!」とさえ伝えてきていた。
「デザインが経営をも補完する」ということを最も早く知ってくれていた。
彼や、福井県での同世代の経営者とのことはいづれ著作にしたいと思っている。
「資本主義を変革、いや、変質させる手立て」は、今、76項目までを論理化している。
これは、100項目にすれば、
「101匹目のサル」という論理構造が派生し、
具体的デザインに必ず結実するという確信が私にはある。
したがって、この講演会では5項目を講演した。
おそらく、ここしばらくはこの講演内容をアジテーションしていかなければ、
この不況をデザインによって変えることはできないと考えている。
講演メニューを紹介しておきたい。
・
そして、何よりも、この講演後にはパネルディスカッションにも加わった。
私は、本来はパネルディスカッションのパネリストは引き受けないことにしている。
しかし、親友の依頼は引き受けた。
そして、若手の経営者二人に出会った。
彼らを是非とも紹介したいと思う。
というよりも、今、私が注目し、彼らが20代から私と交流してきた何人かが存在する。
彼らこそ、「新しい変革者である。玉木流に言えば、「日本経済、新世紀の変質者である」である。
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3月 4th, 2009 Posted 12:54 AM
4
「比例式」ってご存知ですよね。A:B=X:Yという「数式」の一つの形式です。
これは、AY=BXが成立する数式です。
たとえば、A:B=1:0とすれば、A0=B1です。
そこで、こういうことを、この比例式で表してみましょう。
資本主義:共産主義=1:0なら、
共産主義が1だとすれば、資本主義は0となるわけです。
この解釈は、二つの考え方でみることができます。
共産主義を「存在」させて、
資本主義を「壊滅=0」にすれば、
共産主義は、「存続」できるという論理構造を表した「比例式」であった、ということです。
もうひとつは、
資本主義が「存在」=1とします。
共産主義が「崩壊」=0とすれば、
結局は、共産主義が崩壊すれば、
存在していた資本主義も0なので、「非在」である、ということです。
この論理に向かわなかったマルクスの思考不足を私は指摘しておきます。
それは、彼が、「科学的社会主義の構築」、
その下敷きに、「数学的な論理」を使おうとしていたことです。
・
彼は、「数学的な覚え書き」を、自分も学習し、
同志としてのエンゲルスに、なんとしても伝えようとしたノートがありました。
1933年に、日本でも入手されていましたが、当時の日本で、
これを翻訳するということはとんでもないことでした。
ところが、1949年・昭和24年に、岩波書店からマルクスの「数学に関する遺稿」として、
200円で出版されました。
このノートに、以後、マルクスの資本論構築の思考回路を辿ることができます。
ノートの最初が、「導関数」です。
最終章では、「原始関数」でまとめることで、
「解放」というコンセプトを数学的に立証可能にしていることです。
残念ながら、この「数学に関する遺稿」を背景とした
「資本論」の読み方と解釈がまったく無いことです。
あるのかもしれませんが、これまで私はずいぶんと探してきましたが、見つかりませんでした。
ところが、最近、英語の原書があらためて出版されています。
現在のこの不況を再考するために、マルクスにも回帰して検分しようということなのかもしれません。
ともかく、「価値」ということの見直しが、世界的にも始まっているのでしょうね。
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