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「機関車の魅力=鉄道の魅力に潜むデザイン論理」


   


     6月 25th, 2012  Posted 12:00 AM

大阪駅に帰って来ると、
C57155の車輪が迎えてくれます。
子供の頃から、蒸気機関車が大好きでした。
「デゴイチ」か「デコイチ」かの区分にも私見があります。
そしてなんといっても北海道で、
蒸気機関車が全面ストップ寸前、まだ東芝マンでした。
それゆえに「蒸気機関車・SL録音出張」までしました。
しかもその録音はLPレコードとして商品化できました。
3重連で走りそこに雷鳴が、という素晴らしい音録りをしました。
鉄道は、子供たち、特に男の子にとっては魅力があります。
そこで、次のような課題を考えることができます。

■1.「新幹線はとても速い」だから「子供達に人気がある」
■2.「新幹線はとても速い」だから「目的地に速く着く」
■3.「蒸気機関車はかっこいい」だから「未だに人気がある」

この三つのテーマの中で、いわゆる数理的論理性は2だけです。
ところが、デザイン的な論理は、1と3です。
それには、二つの重大なキーワードがあると考えます。
まず、新幹線は流体力学的にも
造形デザインでスピード感がある形態=形態言語があります。
この造形言語による形態言語が、子供たちを虜にするのです。
また、蒸気機関車の造形言語には、力強さがあります。
この力強いという形態言語にさらには郷愁感が加わります。
したがってこの郷愁感には、
ノスタルジーやアンティック感は人間の感性を静謐に刺激します。
私は、現代デザイン・未来デザインとしての鉄道には、
速度性がある造形言語が創出されるべきだと思っていますが、
もう一方では、蒸気機関車のZゲージでは、
ドイツでの蒸気機関車のある種類に拘っています。
それは、速度感が編年的にアンティック感へ移行する感覚、
その魅力を見極めたいと思っているからです。
稲妻と雷鳴の中で、三重連で走るD51の姿=形態言語は、
今も私の脳裏には明確に思い出すことができます。
造形言語と形態言語の関係、
この構造主義性はこれからのデザイン論理として研究が必至です。


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「物には人間の『きもち』が反映」


   


     8月 18th, 2011  Posted 12:00 AM

オーディオにはかなり必死です。
名古屋では、評論家のS先生が来訪。
オーディオ専門誌上での先生連載の取材。
その話をもらったときに、
丁度リペア4.5回目のJBL4343が戻ってきてました。
それから大慌てでエイジングしました。
エイジングの手続きとしては、
最初のホワイトノイズをかけっぱなしで、
次には私なりの方法がありますが、期限切れでした。
取材前日にJBL4343に話しかけました。
「明日は頼む」と。
もちろん、その時の部屋もリフォームしました。
気になっていたドアを剛性と密封性あるモノに変更と、
壁の共振、パワーアンプの設置などでした。
取材前夜の試聴ではまぁまぁかと思っていましたが、
当日は、まるで、自己主張しているかのようで、
私自身が大変に驚きました。
先生が帰られたあとにJBL4343を誉めました。
「お前はすごいわ・・・よくやった」と。
私は職業柄でしょうが「モノには想いが伝わる」、
このことを信じています。
それこそ愛車にも、カメラにも、万年筆など愛用品には
絶対にユーザーの「きもち」が伝わると思っています。
万年筆はしばらく使わないとヤキモチが残っています。
車などは明快です。
ある歌手の人が、やっと手にしたポルシェを、
ポルシェの新車にしようと思った時から故障する、
こんな話を冗談交じりでTVで語っていました。
私は絶対にこれはオカルト的でもなく当然だと思います。
モノ=私は工業製品・人工物をこのように呼ぶのですが、
大きなシステムも全く同じだと考えています。
日本の新幹線は開設以来、
本当に「安全」が徹底しています。
今回の震災でも、中越地震の教訓が生かされていました。
私は、原子力発電所の管理に最も欠落していたことは、
大規模なシステムであるだけに「大切に大事に」という
愛用しているという組織の「きもち」が有無です。
無論、原子力発電所を愛用しようと言い出しているのではありません。
いわば、猛獣を飼い慣らす基本は「動物への愛情」です。
そして、自然はどれだけ愛でようが、時に、
私たちにはそれこそ「想定外」の破壊を仕掛けてきます。
自然は決して美しくはないのです。
でも美しくあるべきというきもちが自然保全に繋がっているのでしょう。
原子力も猛獣だとするなら、
愛情を持って愛用という話で終わるわけにはいきません。
ほとんど制御するということは適わないことになりますから。
自然物と人工物との間に人がいます。
人間という存在のきもちが、
どうこの二つに介在していくべきかを
私たちは生涯かけて対峙していく課題なのかもしれません。

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