6月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design
6月 18th, 2010 Posted 9:22 AM
目次を見る
11月 21st, 2009 Posted 10:00 AM
人は、堪え忍ぶことを知っています。
特に、「神の国の住人」だった日本人は、
戦中・戦後どれほど耐えて堪えて忍んだことでしょうか。
戦後、少なからず豊かさに包まれて育った私程度に、
その「辛苦」は、想像を超えてるはずだと思います。
そして、本当は、「間違った選択だった戦争」は、
「辛苦」から逃れるための唯一の方法だったとさえ、
私はたたづんでしまいます。
だから、戦前、戦中、戦後、はもちろんのこと、
「神の国」に生きることが辛苦であったのでしょう。
その堪忍の心情性こそ、日本人の「こころ」だから、
願い・祈りは絶望の寸前=辛苦への態度だと思うのです。
しかし、この願いや祈りが、
なんらかの信仰心や信念に向かわない限り、
「神の国」に流れる日常性をも、何かに代替させたり、
言い訳や言い逃れを、あたかも、全体的な意志だという
大きな錯覚をしてしまいます。
私は、その、あたかも、「辛苦」への祈りと願いを
言い逃れにさせようとした一群は、
あきらかに左翼系・進歩的(のはずはない)文化人と、
戦後の新興(偽)宗教の始祖たちではないだろうか、
と思っています。許せません。
そして、彼らをカリスマとしてあがめてしまった人々の
哀れさと無知識さを悲しむばかりです。
「辛苦」に堪えきるには、祈りでも願いでもありません。
まして、
左翼思想や新興宗教の偽善的信念や信仰、
そのもっともらしさなどを選ぶのは賢明な判断で
あるはすがありません。
それは、もう一度、「神の国=自然の国」の
ささやかな「日常の自然」へのまなざしでしょう。
そのまなざしが、「日常の自然」にどれだけ、
感激と感動ができる「我」であるのか、
その「我」である自分には「美」を知る心があったこと、
「神の国」に生を受けたことを感謝できるかだと思います。
Tags: 「資本主義からの逃走」, カリスマ, 信仰, 信念, 右翼, 宗教, 左翼, 日常の自然, 神の国, 辛苦
Posted in 006「宗教・神の国」, 資本主義から逃走せよ!
11月 20th, 2009 Posted 8:09 PM
11月20日 先勝(己巳)