10月 8th, 2009 Posted 9:35 AM
「資本論」は、明らかに欲望の構図が二重性、
あるいは複層性をしていたことを明白にしています。
その欲望の構図を
マルクスは当初に指摘してしまったのです。
ある見方をすれば、
「資本主義」にとって、
マルクスの存在はとても幸運だったと思います。
なぜなら、
マルクスの「資本論」は、
「資本主義の欠落点や社会構造にとっての不都合性」を
明確にしていたわけです。
そこで、
「資本主義を強化」していくには、
マルクスの指摘はテキストであり、
マニュアルになったのです。
如何に、
「資本主義」の進展や進歩を図っていくためには、
防衛を謀るべき事項を
マルクスの「資本論」に教示されたということです。
彼は「資本論」を
エンゲルスとともに体系化していくために、
エンゲルスに「数学ノート」を書き残しました。
それが、このブログの最初に紹介した「数学に関する遺稿集」
1949年に日本で紹介されたものです。
このノートの冒頭は、
「導関数」についてから始まります。
マルクスは、この導関数的考察を、
資本主義・対・共産主義、または、
資本主義・系・共産主義として、
比較検討することを自ら、
均衡性=バランス的批判をしなかったために、
「資本主義」を分解し非難しながら、
かえって、
「資本主義の防衛策略」を与えてしまっているのです。
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9月 29th, 2009 Posted 9:36 AM
私は、米国内でも「資本主義の失敗論」が
最近は語られ始めていることに、多少、期待感があります。
しかし、それらは大きな間違いの論評が多いと感じています。
彼らは結局2008年に資本主義が失敗し失速状況に入っている.
と考えているのが余りにも多いことです。
米国は、二大政党の入れ替わりによって、
自国の利得主義を第一義にし、
世界の先導国家意識に浸りきっています。
けれども私は、
日本人ゆえの、三つの争点を上げておかなければならないでしょう。
●「情報化時代の到来によるポスト工業下意識主義の終焉」は、
まず、西ドイツで予測(=意識社会化)されていたという事実を、
米国が主導したという勘違いがありました。
そのことは東西ドイツによって
「ベルリンの壁の崩壊」(*Wikipedia)=「社会主義の終了」になっていったのです。
実際的にもこの時点で、資本主義も終焉していたのです。
そのことに気づくことない金融工学という幻想学識の拡大と実践に、
資本主義のさらなる進歩というこれは妄想に米国は取り憑かれていきました。
●次に、共和党の「保守性」は、これも米国主導での中近東対策でした。
それは、天然ガスの剥奪戦=テロとの戦いとしていく9.11事件で、
さらに彼らは、その「保守性」の強固な保全、口実の明白さづくりに入っていきました。
その反省があったにもかかわらず、
今度は民主党の「保守の保全」がいかにも「革新」と言わんばかりに
アフガンのベトナム化再来に向かっています。
●そして、疑似資本主義である「市場経済主義」という社会主義を
中国全国民に隠避している中国の台頭は、
米国の予想以上であったのではないかと私は推測しています。
はてさて、この三つの誤認識を真正面から米国に指摘できなかった日本は、
アジアでの存在感を失って取り残されているという次第です。
「誰か知らん、松柏後凋の心を」と私はもう一度、
書き改める役割を感じています。
この役割は、橋本左内の辞世の句を持ち出すことです。
しかも、この重圧を生涯持ち続けなければならなかった福沢諭吉の存在です。
その代表的著作「文明論之概略」に集約し、
そこで語り残せなかったことにまで遡及しなければなりません。
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4月 13th, 2009 Posted 11:00 AM
なんだかここまでマルクスの事を記述してくると、
私はまるでマルクス全否定論者のようになっている、
と感じている人もいると思います。
しかし、そうではありません。
思想として、「資本論」を受け入れるわけにはいかないだけです。
そして、マルクスについては、
生涯かかっても読み切れるはずもないほどの著作が氾濫していますが、
大きな間違いにはうんざりします。
たとえば、マルクスは数学が大の苦手だった、
というのは間違いでしょう。
苦手なら、「数学ノート」を作ってまで、
それをエンゲルスに説明用とまではしなかったはずです。
確かに、「資本論?」では、
数学的な記号での、特に「貨幣論」が展開されますが、
さほど高度な数学的な論理にはなっていないことは確実です。
もっとも、「資本論?」からはエンゲルスが書き残したと言われています。
いわゆる「経済学」の大きな根幹、要素には
「貨幣」の意味、「貨幣」の運用、「貨幣」のサイクル性が取り上げられます。
ところが、マルクスの時代には想像外、想定外のことが
世界の「金融要因」が発生してくることです。
想定外は、三つあると私は思ってきました。
さらに、「要因としての金融」と「金融とサービス」が
これからはさらに変貌することが想像可能です。
ともかく、その三つをあげておきます。
■ 「クレジット」信用を「カード」化
これは「クレジットカード」というプラスチックマネーの登場です。
■ 「貨幣」は要素ではなくて
「要因としてのスピード」はまったく想定外だったこと。
■ 「金融サイクル」は計算ではなくて、
「金融演算」、すなわち、コンピューター上でのサイクル性は、
即、「景気」連動につながった。
私はこの三つは、マルクスの「資本論」の想定外だった。
しかし、金融工学の根底には
やはり「資本論」がその基盤を構造化していたことは認めているのです。
この4月に、ある金融機関・銀行の「入行式」で記念講演をしました。
これから、金融業界・銀行人になる人たちに
「時代とともに働く意味」という話をしました。
この講演の根底では、確かに、私の金融への想いには、
マルクスの『資本論」があったことは確かです。
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4月 3rd, 2009 Posted 12:00 AM
「使用」は、「用途」の場合が上図でわかります。
『対象化された用途」、その形式と内容によって、
モノの価値感が分類されていることが一目瞭然です。
「使用」することの形式とは、『用途」の方法と考えます。
その「用途」の実際的な内容が付随しているということです。
使用が、まず、モノが採用されることから始まり、
「急用」として使われるのか、あるいは、「専用」となるためなのかは、
使用の内容である用途が、形式を決定する価値感になっていることです。
マルクスの「価値」分類は、
基本的にはゆるぎない二極性だったことは、
次に、そのモノが、あるいはモノは、「所有」されることによって、
形式がもう一つの内容の軸で分類されることに特色が生まれます。
使用するために「持っている」ということの、「内容」であり「形式」です。
「所有」は、「収集」するという欲望とか、
またはもう「蓄財」しておくだけとかいうだけです。
保有や保持、
それが「所有する何かを明示することに」まで及ぶことになります。
「所有」できるということが意味することと、
「所有」ということが意味されることがあるということです。
これは明らかに、マルクス以後に、「記号論」としての解釈につながっています。
単純にいえば、「保持」できるということは、
その人の購買能力を表していることです。
そして、この能力は社会的な存在や立場です。
その人の階級を顕示することを意していることになります。
別の言い方をすれば、「所有」という価値性が、
その人の社会的な階級を意味しているということです。
ここに、「使用と所有」という二つの価値観が、
さらに分別されて、意味性をMANDALA的に明示しているのです。
明示された意味性を知るためには、
歴史という時間の経緯や手続きがありました。
この経緯や手続きこそ、
歴史を支えていた支柱あるいは基盤であったことは、歴史の重力感にすぎません。
だから私は、マルクスの思考が、
どれほど「科学的社会主義、あるいは科学的共産主義」だと言われても、
歴史の重力感でしかないから、なんら感動することはありませんでした。
高校から大学、特に大学では70年の学園闘争時代を共時していたにも関わらず、
こうした闘争こそ歴史を突き動かすと妄信している連中を、
私はむしろ冷徹に見下していました。
なぜならば、マルクスは、「価値の意味性」に言及していたというわけではありません。
むしろ、「使用」と「所有」が、人間の社会的な存在性=階級性に、
もっとも焦点をあてていた論理だったにすぎないからです。
論理であるから論理構造の明確さは認めておきますが、
「意味すること」と「意味されること」を知るようになって、
ようやく、論理・思考・思想の差異性を知っていく自分、
その自分がが確信できるコトは何なのかを自分自身に突きつけていた気がします。
この差異性、あるいは距離感覚で掴んだのは、
階級的存在となる人間の差別という問題の方に自分の興味は大きかったと思います。
階級性は、ある種の差別を生み出していて、
この差別を促進される構造が、
「資本主義」という論理というよりは、思考だったのだと私は思ってきました。
それが、「思想」なのだろうか?、ということをずーっと考えてきた気がします。
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3月 23rd, 2009 Posted 12:20 AM
マルクス理論の骨格である「価値論」は、
きわめて西欧的思考で固まっていると思います。
それは二元論での分割では、思考を閉じ込め、
その二元を二極化する正当性だけを信頼してしまいます。
私はこれこそ、思考・思想を信仰してしまう危険性があるのだと指摘しておきます。
私は、この論理構造は、東洋的、仏教、その禅宗的思考によって、
一端、溶解すべきだと提案しておきます。
私のふるさと福井には、永平寺があります。
この永平寺開祖・道元の思想には、二元論を融解する思考手法があるのです。
もっとも、道元自身は、自然体的な思考論であったのですが、
後世になって、「現世公案」という解釈論の手法となった「四句分別論」があります。
この論理によって、二元・二極、その分解と統合化は、溶解と融合を促すことができます。
「四句分別」ということを、
私は必ず、海外の大学で講義する時には、
「現世公案」という思考論を紹介をすることにしています。
なぜなら、デザイン発想でもこの思考方法は発想を促進するには、
とても優れて有効であるということだからです。
ところで「公案」というのは、禅宗用語です。
禅宗というのは、行学という思考を日常から
さらに展望を「生き方」の「悟り」としていく宗教です。
つまり、「ことばの意味」・「自然事象の徹底した理解」・「自然とことばの構造・関係」を
身体化する宗教哲学だと、私は了解しています。
では、簡単に「四句分別」というのは、2×2=MATRIXという図解で
視覚的な援用でより理解が容易くなるからです。
たとえるなら、西欧的なyesとnoの関係です。
日本人は、yesとnoを曖昧にする民族と非難されてきました。
私は、それが「日本的思考の根本的思考」だと再主張したいと考えてきました。
どんな人間のこのyesかnoかという価値判断を求められたなら、四つの評価感覚があるはずです。
■まったくyesである。
■まったくnoである。
■yesだが、noという思いも残っている。
■noだが、yesという思いも残っている。
これらを図解(2×2=MATRIX)してみると「一見して分かる(=分別することが)できるでしょう。
では、この「四句分別」によって、マルクスの「価値論」を公案してみたいと思います。
それは、マルクスを原点としながら、
この思想を現代の経済的な問題解決論としておくことではありません。
「資本論」は「宗教」と断言したからには、
あえて、日本の高密度な思考によって、再構築してみたいと考えるからです。
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3月 17th, 2009 Posted 10:14 AM
6
マルクスの「資本論」を紐解いて読解するには、とてもいい方法があります。
漫画で見て理解するというのが手早いだろうと思います。
しかし、この漫画は作者の基本的な読解力が基盤だから、
自分の「客観性」をフル稼働させた方がいいでしょう。
それから、自分の「主観」と「客観」を組み合わせながら、
意識化することが大切だと断言しておきます。
「資本論」は、「価値」についての論説が基軸になっていると考えます。
私は、「価値」について、デザイン用語の一つとして定義しているので参考にしてください。
なぜなら、私は「資本論」への私なりの距離感をはっきりとしておくには、
私の「価値」の定義はその一つでもあるからです。
簡潔に言うなら、「資本論」は「宗教」であると考えてきました。
というよりも、私には、デザインが宗教であると言っておいた方が気楽です。
デザイナーという宗教家、いえ、デザインのエバンジェリストだと自称しておきます。
?
さて、マルクスの定義は、当時の「価値論」に縛られています。
「価値」は時代と社会によって、その意味と意義を変容させています。
よって、この変容にいたる変遷を遡及し、
さらに、「価値観」という意識に照合しなければなりません。
そうすれば、この論理の正当性あるいは論理観という意識が、
とりわけ、資本主義と民主主義社会に構造化されてこなかった理由がわかるはずです。
だからこそ、マルクスのすでに定説、あるいは教条的概念は、
「所有価値」と「使用価値」に集約していることを疑うのです。
この「所有」と「使用」が、
すでに、歴史的には、大きく変貌し、変質し、変容していることに
注視しておかなければならなかったことです。
私は、デザイナーという職能以前に、
高校時代にすでに、この二つの価値分類に大きな疑問を抱いていたのです。
そのために、いわゆる「科学的社会主義」が「宗教」だと直観してしまったのでしょう。
そして、デザイナーという職能になって、「所有」と「使用」の詳細をデザイン対象とすればするほど、
すなわち、この職能経験は、この疑いを明確にすることができたとさえ思っているわけです。
この定説化された教条的概念は、
「資本論」そのものをほとんど「宗教的」から、信心する人には、「宗教」になったわけです。
だから、社会主義が「宗教」そのものを排撃したことも、よく理解できます。
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3月 4th, 2009 Posted 12:54 AM
4
「比例式」ってご存知ですよね。A:B=X:Yという「数式」の一つの形式です。
これは、AY=BXが成立する数式です。
たとえば、A:B=1:0とすれば、A0=B1です。
そこで、こういうことを、この比例式で表してみましょう。
資本主義:共産主義=1:0なら、
共産主義が1だとすれば、資本主義は0となるわけです。
この解釈は、二つの考え方でみることができます。
共産主義を「存在」させて、
資本主義を「壊滅=0」にすれば、
共産主義は、「存続」できるという論理構造を表した「比例式」であった、ということです。
もうひとつは、
資本主義が「存在」=1とします。
共産主義が「崩壊」=0とすれば、
結局は、共産主義が崩壊すれば、
存在していた資本主義も0なので、「非在」である、ということです。
この論理に向かわなかったマルクスの思考不足を私は指摘しておきます。
それは、彼が、「科学的社会主義の構築」、
その下敷きに、「数学的な論理」を使おうとしていたことです。
・
彼は、「数学的な覚え書き」を、自分も学習し、
同志としてのエンゲルスに、なんとしても伝えようとしたノートがありました。
1933年に、日本でも入手されていましたが、当時の日本で、
これを翻訳するということはとんでもないことでした。
ところが、1949年・昭和24年に、岩波書店からマルクスの「数学に関する遺稿」として、
200円で出版されました。
このノートに、以後、マルクスの資本論構築の思考回路を辿ることができます。
ノートの最初が、「導関数」です。
最終章では、「原始関数」でまとめることで、
「解放」というコンセプトを数学的に立証可能にしていることです。
残念ながら、この「数学に関する遺稿」を背景とした
「資本論」の読み方と解釈がまったく無いことです。
あるのかもしれませんが、これまで私はずいぶんと探してきましたが、見つかりませんでした。
ところが、最近、英語の原書があらためて出版されています。
現在のこの不況を再考するために、マルクスにも回帰して検分しようということなのかもしれません。
ともかく、「価値」ということの見直しが、世界的にも始まっているのでしょうね。
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2月 18th, 2009 Posted 12:34 AM
3
そう思って、最近は、「龍」のブレスレットに凝っているのです。
なぜって?
ブレスレットと指輪は、母への挽歌ですから。
21年間、私を育てるだけの生涯だった母、
47歳で逝ってしまった母への想いがあるからです。
私の母は、美大に進学すると、ブレスレットと指輪を買ってくれました。
当時私は、「こんなの女々しいよ」と、ほとんど拒否的だったのです。
ところが母は、
「いいえ、これからの男は、ブレスレットと指輪をするべきよ」
と言われたのです。
母は私に、美大進学を俄然すすめてくれたのです。
「あなたに、医学部は似合わない。
生涯、赤い血を見て暮らすより、赤い絵の具を見て暮らす方が楽しいし、
あなたに似合っている」
という人でしたから、
彼女の言葉で、ブレスレットと指輪は、以来、私の大事な趣味です。
・
男ゆえに、
チャラチャラして見えるかも知れません。
が、指先と腕にあるべき「かたち」ゆえ、
絶対に「美しいモノ」として、
身体化させる意味があると考えています。
これから、指輪やブレスレットのことも紹介します。
今、なぜ「龍」なのかというと、今年早々、夢に出てきたのです。
それに「龍」というのは想像上の動物です。
自分流に「描いてみたい」と思っています。
そして、「資本論」に真剣に向かっているのです。
マルクスを超える話にもどります。
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2月 16th, 2009 Posted 3:03 PM
2
・
資本主義は、狸が木の葉に息をかけて紙幣にしていたのです。
そして、やっと、世界中が気がついたのです。
なーんだお金=紙幣は木の葉!だった、ということです。
今、日本には哲学者がいません。
人生これまで最も敬愛し、かわいがっていただいた中村雄二郎先生は、
今はベッド生活なので、質問できないさみしさとかなしみでいっぱいです。
最近、どういうわけか「臨床哲学」を吹聴する学者が増えました。
けれども決して、中村雄二郎先生を超えられないことは明らかです。
フランスの哲学アカデミーが、認めた日本の哲学者は、西田幾太郎と中村先生だけですから。
人間は、自分の経験を買いかぶってはいけません。
歴史にもどって歴史から推測するのが基本でしょう。
それは歴史の背景であったその時の哲学だと、中村先生から教えられてきました。
だから経済学者に時代を予知し予測などできるわけがないのです。
だから、デザイナーの直感がきっと当たっていると思います。
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2月 13th, 2009 Posted 1:03 PM
1
華甲になるから、私発言を始めます。
「金融工学はマルクスが言い出したのです」
もう「資本主義はすでに終わっている・・・のに」!
何を血迷って、不況だ不景気だ!と騒ぐのかと思います。
すでに、こうした事態を予想しておくべきだったのです
そう思うと、三度目ですが、『資本論』を読み直すことにしました。
高校時代に読んだことがあります、全巻です。
大学時代には、結構懸命に読みました、大学生の基本的な知識だと思っていましたから
結果、よく『空想と科学』で共産主義に染まるものだと言わます。
しかし、私は、なんとも、こんな考え方は「全く間違っている」と思ってしまったのです。
だから当時もっとも盛んだった学園闘争など、本当に馬鹿げて見えていました。
それより、美大の実習課題をやりとげることが、苦しくもあり楽しいし懸命になれました。
マルクスの『資本論』は、高校と大学時代には、岩波の文庫本でしたが、
今度は思い切って、「全3巻5冊」というハードカバーを買い込みました。
1949年(私の生年)に、『マルクスの数学遺稿』というのが発刊されています。
すなわち、金融工学の始祖は、マルクスです。
これすら明言している学者は皆無です。
この「遺稿」は、エンゲルスに「導関数」を教えるノートだったのです。
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