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Posts Tagged ‘かたち’


10月31日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     10月 31st, 2011  Posted 12:36 PM

10月31日 友引(己未)

デザイナーの志は、
「かたち」の創出にある。
しかも、
その「美しいかたち」を
志に明快に配置しておかなければならない。

『デザインという先手』志


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7月28日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 28th, 2011  Posted 11:30 AM

7月28日 甲申(先負)

なんとしてもそのときどきの形態を
ことばから「かたち」に、
かたちから「ことば」に
結実させたいと思ってきたからだった。

『デザインの極道論』あとがき


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7月19日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 19th, 2011  Posted 3:23 PM

7月19日 乙亥(赤口)

私は、自分のデザイン、
自分がデザインという手法で
社会に存在させる形態を、
まず自分自身が、
自分を削り取り、
私の肉体の一部から生み出したかたち、
自分のことばでそのかたちを
守ってやりたい!
と思い続けてきた。

『デザインの極道論』あとがき


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7月18日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 18th, 2011  Posted 9:30 AM

7月18日 甲戌(大安)

形態を取り囲んでいる
ボキャブラリーが、そのかたちをきわめて
「存在の効能性」を物語るはずだと
確信しているからだ。

『デザインの極道論』あとがき


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7月17日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 17th, 2011  Posted 9:30 AM

7月17日 癸酉(仏滅)

少なからず、
膨大な語録を発するほどの
言語性が無いかたちは、
デザインとは言えないとすら
断言し続けてきた。

なぜなら、デザインは形態言語、
あるいは造形言語を
保持していなければならない。

『デザインの極道論』あとがき


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7月16日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 16th, 2011  Posted 1:09 PM

7月16日 壬申(先負)

またデザイナーが、
かたち以上にことばにこだわれば、
かたちが軽視されてしると言われる。
かたちで語れば、
ことばはいらないはずだ、
という意見も圧倒的である。

『デザインの極道論』あとがき


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7月15日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 15th, 2011  Posted 1:06 PM

7月15日 辛未(友引)

「これ、使いにくそうね」なんて、
一言で切り捨てられる。
使わずに、
見た印象だけで断罪する批評もあるわけだ。
これは決まって、
これまで見たこともない形態を
提示したときの反応である。

『デザインの極道論』あとがき


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7月14日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 14th, 2011  Posted 1:03 PM

7月14日 庚午(先勝)

私の信念は、
「かたちは、ことばに必ず敗北する」
とさえ、
自己嫌悪することもしばしばである。

『デザインの極道論』あとがき


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7月6日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     7月 6th, 2011  Posted 11:42 AM

7月6日 壬戌(大安)

常に
「かたち」と「ことば」は相対論的な
関係にあると考えてきた。

『デザインの極道論』あとがき


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「かたちには三つのかたちがあるようだ」


   


     5月 7th, 2011  Posted 12:00 AM

「かたち」というかたちはありません。
私は「かたち」に関わってきました。
私なりに、「かたち」は三つあると想っています。
形式・形体・形態だと考えてきました。
しかし、形式はかたちというモノに
いたるわけではありません。
むしろ、形式はすぐに形骸化する事があります。
それでも形式のデザインは強固にあるものです。
形式で取り繕いは極めて簡単です。
そして形式のデザインほどまた難しい事は無いと考えてきました。
その前に、形体というのは、
立方体・球体・三角錐・四角錐などの基本形式が、
モノのかたちになっている物です。
そして、形態は基本形式からの状態変化・変貌したモノです。
デザイナーとして、この三つのかたちに拘ってきましたが、
かたちを造形するということが、
自分から距離=隔たり=近さという概念が見え出すとき、
ようやく、造形するこうした三つの「かたち」から
最も欠落していく事に気づき始めるものです。
とりわけ、具体的に身体との距離感と、
自分自身だけの想像力との距離感が把握・認識できるには、
ある種の能力が必要になると思えるようになりました。
少なからず、この能力を参照するには、
自分の「かたち」の検証をある方向から試すことしかありません。
この手法がデザインだと思っています。
したがって、この三つのかたち=形式・形体・形態には、
自分の誠実さは決して失ってはならないと確信しています。
形式・形体・形態に誠実さが無いモノは容認不可能です。
だから形式論議に終始する議員制民主主義は腐敗しているのです。

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