kazuo kawasaki's official blog

Archive for 1月, 2011


「資本主義からの逃走」
     「意識とは生の認知であり良心」


   


     1月 14th, 2011  Posted 12:00 AM

『諳+戈』
意は「意識」に至ります。
通常の「意」に対する解釈です。
私はその前提に「音」と「言」にしました。
私なりの解釈は、
「諳」ということが「意識」への手がかりということになります。
『諳+戈』ということで戈(ほこ:ほこづくり・はこほこ)が「識」です。
これは音=もやもやしていること+言=発音明確の諳に刃物が入るわけですから、
明快になる、あるいははっきりさせるということです。
しかし、意識には意という諳の状況を「決定する形容詞」とした識です。
この意識そのものを明確にしている言葉を探し出してみます。
そうするとconsciousnessという言葉を見つけ出すことができます。
ラテン語[conscius]は、cum(接頭辞) +scire(「知る」の過去分詞scius)であり、
これは英語にもフランス語にもつながっています。
意味はこの構成通りに、三つの意味があることが確認されています。

   ■ ある知識を共有したり共謀したり、時に共犯関係まで意味します。
   ■ ある行為、思考、感情までを含意した知という自己意識そのもの。
   ■ そしてその自己意識にには、「良心」=conscentia
自己意識という良心
私はこれは、「義」あるいは「善」を意味していると解釈しています。
よって、諳+戈とはいわゆる「明」=道理が明らかであることを認知する力だと思います。
日本語は「意識」の前にまだ「意思」と「意志」がありこれは「良心」だと認識しています。
さらに私は「情報」には「意識」という意味も含蓄されていますが、
もう一度、「意識」=「意志」+「意思」を「良心」が本来包み込んでいる言葉だと思っています。


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1月13日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 13th, 2011  Posted 11:11 PM

1月13日 先負(戊辰)

「好奇」
野生なる数奇に至るために

『デザインの極道論』好奇


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「資本主義からの逃走」
     「心を諳に、そうして意は巡る」


   


     1月 13th, 2011  Posted 12:00 AM

音と言と諳記
「音」と対称する言葉。
それは「言」と言われてます。
そして、この二つが心の中に存在。
それが諳誦の「諳」ということになります。
現代表記は「暗誦」になってしまいました。
漢字表記が表意性よりも表音性で変えられていますから、
いわゆる旧漢字が無くなって、本来の「意」味が変貌してしまうのは残念なことです。
漢字を確認するときに、旧漢字との照合は大切なことだと思っています。
さて、「音」は、口内に刃物が向けられているがゆえに、
明確な発音ができない、「もぐもぐ」した発音になります。
「音」には明確な発音の言葉性はありません。
しかし、「言」は、その刃物をはき出したように刃先が外に出ています。
したがって、言葉は刃物のように明確で、
その明確さ故に人を傷つけるということにもなるのかもしれません。
言葉は人を傷つける性質はここにあるのでしょう。
「音」と「言」は対極であり、対称性があるということです。
「諳誦」とは、諳記=暗記するために、
まだまだ明確でないことを意識化していく作業と考えることになります。
諳から識へ
「意」は古代インドでのmanasや英語でのmindに表れているように、霊性や生命性から、
やがては仏教や哲学の基本「識」(=vijñ ā na・ヴィジュナーニャム)につながっていきます。
その前提に「諳」が意の中で巡り巡っている気がするのです。
結果、「意識」が形成されて、私はこの意識の存在が「生」ということだと認識しています。


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1月12日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 12th, 2011  Posted 10:00 AM

1月12日 友引(甲戌)

アップル社を
従来型の企業組織だと考えることが
まず間違っている。

私の持論で論説すると、
アソシエーションという
群衆の生物集団の時代は終わったのだ。
フォーメーションという群系の環境と
生物の生存体系が始まったわけだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』玩物済民


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「資本主義からの逃走」
     「自分の『意』を見つめることから」


   


     1月 12th, 2011  Posted 12:00 AM

意は心音
意思と意志が人生を決定。
意思にも意志にも「心」あり。
意・思・志、この三つの漢字に「心」。
私はこの中で、最も生涯分からず仕舞いになる言葉。
それは「意」だと思ってきました。
そして、心なる思考を司っている言葉こそ、「意」だと考えてきました。
私がオーディオマニアであり、「音」に関わってきたのも、
この「意」を知り尽くしたかったのかもしれません。
私が「音」にこだわり、「音響機器」から「音」の具体と抽象、
さらに主観と客観をこの40年以上追いかけていると思っています。
「音」+「心」は、明らかに心音です。
これは、生まれてすぐに心拍となる心臓の鼓動です。
したがって、この心拍、心音が停止すれば、
人間は死にます。生涯が終わるわけです。
ということは、あらためて「意」が生命、生きていることです。
生きていることというのは、自分の身体の中の「意」を制御することです。
ところが、心拍・心音は制御は不可能です。
時に心臓の鼓動が早まったりするのは、正常な身体リズムであれば、
それは交感神経と副交感神経が「心」の動きを正直に表しています。
これは私自身がデザインと医学を結びつけようと仕掛けられた啓示かもしれません。
意志決定と意思決定
ともかく、「意思」と「意志」をまず明白にして、
「意志決定」と「意思決定」は同一であるのだろうか、
もしくは何か違いがあるのだろうかを「意」に焦点を合わせて見つめ目直したいと考えます。


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1月11日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 11th, 2011  Posted 11:07 AM

1月11日 先勝(丙寅)

次世代の教育のためには、
ちゃんとまともな定価でモノを買って、
そして育てていくのが
正しいのではないだろうか。

『デザイナーは喧嘩師であれ』教員極道


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「資本主義からの逃走」
     「『多数決』でのデザインや造形決定はありえず」


   


     1月 11th, 2011  Posted 12:00 AM

主観と客観の互換性
デザインは必ず客観的洞察が必要。
だから、デザインチームでの共同作業は妥当。
ところがデザインチームという集団ゆえに、
その客観性は、チーム一人一人の主観性が議論されます。
その主観性の議論は、多数人の集団や集合体の主観性が基本的に価値的な対等性を前提にして、
はじめて討論・議論による意思形成になります。
そして、討論によってその主観性は客観的な意見や意思になっていくものです。
その結果として、多数の意思やその主張が、
お互いにある意思に必ず向かっていくことが期待されます。
その「期待感には互換性」があるということが集団の主観性にまとまろうとするとき、
「多数決」論理は、最も正解的なデザイン決定に接近しているというのが普遍的な討論・議論です。
この場合には決して、超越的な権威や独裁的な意見によらない集団的な主観性でも、
「客観性」の確認だったという多数決論理の結果です。
さて、デザインでの意思決定への意志決定がこの多数決的な過程結果であった場合、
このデザインは「創造性」ははぎ取られているものというのが私の経験値です。
つまり、「多数決」でのデザイン、デザイン造形、デザイン意志決定は、
必ずデザイン成果での失敗傾向が大きいと私は思っています。
極論を断言すれば、超越的な主張が、合議体での決定であるべきだと考えます。
それは、まったく「多数決」的な意思ではなく、個人的な主観性と客観性との互換性、
この条件に満たされた「個人的」意思反映だと確信しています。


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1月10日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 10th, 2011  Posted 10:00 AM

1月10日 赤口(乙丑)

原因は、
教員が納入備品や機器の条件を提示しても、
同等機能であれば
できるだけ安い業者に落札してしまう
お役所間隔と、
その感覚を当然としている業者に
大学が食われているからだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』教員極道


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「資本主義からの逃走」
      「自分の中の『多数決』」


   


     1月 10th, 2011  Posted 12:00 AM

決定に論無し
私の決定。意志決定。
それには決定論も決定論理もありません。
自分に問いかけてきたのは、
どうしてこの「造形」=デザインに決めたのだろう。
私の意志決定は、デザインの決定に繋がっています。
しかし、決定論、あるいは決定論理を常に求めてきました。
その決定、造形決定、デザイン決定には、
自分の中には「論」も「論理」も正直ありません。
というより、無もしくは空です。
ちょっと日本人らしく言ってみるだけのことですが、
それでも、「論理」を常に求め続けてきたと考えています。
もし、論理的な思考があったとするなら、
それは、「最大公約数」と「最小公倍数」の素数での計算方法でした。
方法論、もしくは手法論はあったかもしれません。
そして、私のデザイン造形で評価されたモノは、
公約数的な素数ではなくて、公倍数の素数の中の「公約数にはありえなかった素数」です。
それは、少なからず、私の中に潜んでいたデザイン要素ですから、
多分自分の中にしか無かったものだと確信しています。
これが私の決定手法であり、もし論理だとするなら、
多数決には決して至らないものではないかと推測しています。
よって、私の決定には決して「多数決」という意志は皆無だと考えています。
この思考ゆえ、私には「多数決」の論も論理もありえないということになります。


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1月9日
川崎和男のデザイン金言 Kazuo’s APHORISM as Design


   


     1月 9th, 2011  Posted 10:00 AM

1月9日 大安(甲子)

業者は、
納入する自社商品については
プロフェッショナルでなければならない。

これがアマチュアなのだから始末が悪い。
日本の教育制度だけではない。
この入札制度や、
納入業者の質が悪すぎるのだ。

『デザイナーは喧嘩師であれ』教員極道


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