3月 23rd, 2009 Posted 12:20 AM
マルクス理論の骨格である「価値論」は、
きわめて西欧的思考で固まっていると思います。
それは二元論での分割では、思考を閉じ込め、
その二元を二極化する正当性だけを信頼してしまいます。
私はこれこそ、思考・思想を信仰してしまう危険性があるのだと指摘しておきます。
私は、この論理構造は、東洋的、仏教、その禅宗的思考によって、
一端、溶解すべきだと提案しておきます。
私のふるさと福井には、永平寺があります。
この永平寺開祖・道元の思想には、二元論を融解する思考手法があるのです。
もっとも、道元自身は、自然体的な思考論であったのですが、
後世になって、「現世公案」という解釈論の手法となった「四句分別論」があります。
この論理によって、二元・二極、その分解と統合化は、溶解と融合を促すことができます。
「四句分別」ということを、
私は必ず、海外の大学で講義する時には、
「現世公案」という思考論を紹介をすることにしています。
なぜなら、デザイン発想でもこの思考方法は発想を促進するには、
とても優れて有効であるということだからです。
ところで「公案」というのは、禅宗用語です。
禅宗というのは、行学という思考を日常から
さらに展望を「生き方」の「悟り」としていく宗教です。
つまり、「ことばの意味」・「自然事象の徹底した理解」・「自然とことばの構造・関係」を
身体化する宗教哲学だと、私は了解しています。
では、簡単に「四句分別」というのは、2×2=MATRIXという図解で
視覚的な援用でより理解が容易くなるからです。
たとえるなら、西欧的なyesとnoの関係です。
日本人は、yesとnoを曖昧にする民族と非難されてきました。
私は、それが「日本的思考の根本的思考」だと再主張したいと考えてきました。
どんな人間のこのyesかnoかという価値判断を求められたなら、四つの評価感覚があるはずです。
■まったくyesである。
■まったくnoである。
■yesだが、noという思いも残っている。
■noだが、yesという思いも残っている。
これらを図解(2×2=MATRIX)してみると「一見して分かる(=分別することが)できるでしょう。
では、この「四句分別」によって、マルクスの「価値論」を公案してみたいと思います。
それは、マルクスを原点としながら、
この思想を現代の経済的な問題解決論としておくことではありません。
「資本論」は「宗教」と断言したからには、
あえて、日本の高密度な思考によって、再構築してみたいと考えるからです。
目次を見る
3月 23rd, 2009 Posted 12:00 AM
3月23日 仏滅(丁卯)
教材としてのデザインを産地に配置するには、
デザインの教材化を、かたちの創出のためのものづくり工程そのものを、
デジタル化することではないかと想像している。
In order to plant design as an education resource in producing areas,
I assume it is necessary to convert design into educational resources and
digitize the process of making things that impacts forms to concept.
>『artificial heart:川崎和男展』 教材としてのデザイン
目次を見る
3月 22nd, 2009 Posted 12:00 AM
3月22日 先負(丙寅)
インダストリアルデザインの常套手段(クリシエ)をくつがえすこと。
それは受け手側の日常化馴化されたパリティを破壊することにつながるだろう。
Overthrowing the cliché of industrial design.
This will lead to the destruction of parity on the receiver’s side
that has become mundane and routine.
>『artificial heart:川崎和男展』 反戦としてのデザイン
目次を見る
3月 21st, 2009 Posted 11:52 AM
たとえば、「車」は、移動手段としての機械=マシンというモノです。
「使用価値」は、移動に使用する内容があるということです。
もう一方では、「車を持つ」という「所有価値」があります。
そこで、「車の形容される内容=価値」と考えてみましょうか。
どうでしょう。
たとえば、私は男としてそれなりに車が好きです。
だから、自分にとって「望ましい車」、
その上で「好ましい車」という基準で車を選別してきました。
これまで何種かの車を「所有」して「使用」してきたわけです。
それは、「車の内容への感覚的な私の満足度」が「車に対する私の価値」でした。
「好ましい」のは、無論デザインそのものであり、
そうしたデザインをするメーカー・ブランド・車種でした。
「望ましい」という「車」は、まだ技術的にも進化してはいないと思っています。
もっとも、男子的には、
それなりに「望ましい」と思われるような車種は「所有」してきたと思います。
今、所有しているのは、ベンツのSL500とベンツのS320の二台です。
キャディラックのロングリムジンを「所有」し「使用」していたこともありますから、
考えてみれば、車への価値的な欲望は、それなりに満足していいのだろうと思います。
そこで、「車」の価値感と価値観を、
本当に、「所有価値」と「使用価値」だけで語り切れるのかというと、
そうでもないことが、20世紀戦後から現在では、
すっかり、「形容詞としてのモノの内容が変貌」しているということからも、
「資本論」での「価値論」は、今日までの省察はできていなかったということです。
「資本論」の想像力の限界、それは、明確にこの論理は確信には至らない思考だったということです。
それゆえ、今、流行として、「マルクスは現代をすでに見極めていた!」なんていうのは、
そう言ってはばからない連中の想像力の貧しさを哀しんでしまいます。
目次を見る
3月 21st, 2009 Posted 12:00 AM
目次を見る
3月 20th, 2009 Posted 2:08 AM
希望という言葉があります。
その「望」という漢字には、諸説があるようですが、
「望とは、なかなか見えない遠方の物を探し求めている」という意味です。
これは、現代にも通じていると思います。
原意には、つま先立って、満月が今か今かと待ちのぞんでいる、
という意味も、この文字の派生ではうなずける話でしょう。
次に、好意という言葉の「好」はどういう派生の歴史があったのでしょうか。
これは、この文字の形そのままのようです。
原義が形に表れているということです。
「女」の人が「子」供を大切に養育することを表していますから、
女性と子供との親愛関係が反映した漢字と考えていいでしょう。
・
さて、前置きが長くなってしまいましたが、
「価値」というのは、簡単に言ってしまえば、
「望ましい」ということと「好ましい」ということだと私は定義しています。
なぜ、ここまで一段下りて「望ましさ」と「好ましさ」が、
「価値」だと言っておかなければならないかというと、
デザイナーどころか、営業マンであれ、経営者であれ、
「商品価値」をその歴史性から語り切れる人物には出会ったことがありません。
おそらく、「経済学」・「経営学」・「商学」など商売に関する学域ですら、
この「価値論」あるいは「価値観」には、遠望するほどの距離があると思い続けてきました。
ここであらためて、「資本論」がらみで、このことをメモっておきます。
「望ましい」というのも「好ましい」というのも、
言葉としては、「形容詞」です。
だから、「価値」っていうのは、
「形容詞」のいわば人間を取り込んでいる世界観、
その中にあるということが論理だと言っても構わないでしょう。
私が、「価値」は「形容詞で評価されている内容」だということです。
それなら、マルクスが示した「所有価値」と「使用価値」というのも、
「所有している内容を感覚的な形容であり、使用している内容」と言い換えることができます。
目次を見る
3月 20th, 2009 Posted 12:00 AM
3月20日 先勝(甲子)
「かたち」の持つ機能性、経済性、社会性が
見事にデザイン意図されているという評価が、
デザインの正義であった時代は、いま終焉の時をむかえている。
The age in which the justification of design relies on
whether functionaly, sconomic efficiency,
and sociality are aptly intended is nearing is end.
>『artificial heart:川崎和男展』 文学としてのデザイン
目次を見る
3月 19th, 2009 Posted 12:00 AM
3月19日 赤口(癸亥)
工業システムの経済性を背景に、
デザインの真実を「かたち」で語り直すこと。
とりあえずこれを「文学としてのデザイン」としておきたい。
This truth of design
will not only have the very power to support the economic efficiency
but also to confront and lead the economy.
>『artificial heart:川崎和男展』 文学としてのデザイン
目次を見る
3月 18th, 2009 Posted 12:00 AM
3月18日 大安(壬戌)
デザインによる造形は、
この集合体となる要素を形態の各部位や部品、表面性、素材感などの
統合性と総合性に集約されるものである。
In design, creating a forms is like converging
the difference parts, surface, touch, etc. in a single unified body.
>『artificial heart:川崎和男展』 分割としてのデザイン
目次を見る
3月 17th, 2009 Posted 10:14 AM
6
マルクスの「資本論」を紐解いて読解するには、とてもいい方法があります。
漫画で見て理解するというのが手早いだろうと思います。
しかし、この漫画は作者の基本的な読解力が基盤だから、
自分の「客観性」をフル稼働させた方がいいでしょう。
それから、自分の「主観」と「客観」を組み合わせながら、
意識化することが大切だと断言しておきます。
「資本論」は、「価値」についての論説が基軸になっていると考えます。
私は、「価値」について、デザイン用語の一つとして定義しているので参考にしてください。
なぜなら、私は「資本論」への私なりの距離感をはっきりとしておくには、
私の「価値」の定義はその一つでもあるからです。
簡潔に言うなら、「資本論」は「宗教」であると考えてきました。
というよりも、私には、デザインが宗教であると言っておいた方が気楽です。
デザイナーという宗教家、いえ、デザインのエバンジェリストだと自称しておきます。
?
さて、マルクスの定義は、当時の「価値論」に縛られています。
「価値」は時代と社会によって、その意味と意義を変容させています。
よって、この変容にいたる変遷を遡及し、
さらに、「価値観」という意識に照合しなければなりません。
そうすれば、この論理の正当性あるいは論理観という意識が、
とりわけ、資本主義と民主主義社会に構造化されてこなかった理由がわかるはずです。
だからこそ、マルクスのすでに定説、あるいは教条的概念は、
「所有価値」と「使用価値」に集約していることを疑うのです。
この「所有」と「使用」が、
すでに、歴史的には、大きく変貌し、変質し、変容していることに
注視しておかなければならなかったことです。
私は、デザイナーという職能以前に、
高校時代にすでに、この二つの価値分類に大きな疑問を抱いていたのです。
そのために、いわゆる「科学的社会主義」が「宗教」だと直観してしまったのでしょう。
そして、デザイナーという職能になって、「所有」と「使用」の詳細をデザイン対象とすればするほど、
すなわち、この職能経験は、この疑いを明確にすることができたとさえ思っているわけです。
この定説化された教条的概念は、
「資本論」そのものをほとんど「宗教的」から、信心する人には、「宗教」になったわけです。
だから、社会主義が「宗教」そのものを排撃したことも、よく理解できます。
目次を見る