3月 17th, 2009 Posted 10:14 AM
6
マルクスの「資本論」を紐解いて読解するには、とてもいい方法があります。
漫画で見て理解するというのが手早いだろうと思います。
しかし、この漫画は作者の基本的な読解力が基盤だから、
自分の「客観性」をフル稼働させた方がいいでしょう。
それから、自分の「主観」と「客観」を組み合わせながら、
意識化することが大切だと断言しておきます。
「資本論」は、「価値」についての論説が基軸になっていると考えます。
私は、「価値」について、デザイン用語の一つとして定義しているので参考にしてください。
なぜなら、私は「資本論」への私なりの距離感をはっきりとしておくには、
私の「価値」の定義はその一つでもあるからです。
簡潔に言うなら、「資本論」は「宗教」であると考えてきました。
というよりも、私には、デザインが宗教であると言っておいた方が気楽です。
デザイナーという宗教家、いえ、デザインのエバンジェリストだと自称しておきます。
?
さて、マルクスの定義は、当時の「価値論」に縛られています。
「価値」は時代と社会によって、その意味と意義を変容させています。
よって、この変容にいたる変遷を遡及し、
さらに、「価値観」という意識に照合しなければなりません。
そうすれば、この論理の正当性あるいは論理観という意識が、
とりわけ、資本主義と民主主義社会に構造化されてこなかった理由がわかるはずです。
だからこそ、マルクスのすでに定説、あるいは教条的概念は、
「所有価値」と「使用価値」に集約していることを疑うのです。
この「所有」と「使用」が、
すでに、歴史的には、大きく変貌し、変質し、変容していることに
注視しておかなければならなかったことです。
私は、デザイナーという職能以前に、
高校時代にすでに、この二つの価値分類に大きな疑問を抱いていたのです。
そのために、いわゆる「科学的社会主義」が「宗教」だと直観してしまったのでしょう。
そして、デザイナーという職能になって、「所有」と「使用」の詳細をデザイン対象とすればするほど、
すなわち、この職能経験は、この疑いを明確にすることができたとさえ思っているわけです。
この定説化された教条的概念は、
「資本論」そのものをほとんど「宗教的」から、信心する人には、「宗教」になったわけです。
だから、社会主義が「宗教」そのものを排撃したことも、よく理解できます。
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3月 8th, 2009 Posted 12:50 AM
5
このBlogにて紹介しはじめている、「資本主義からの逃走」を初めて、講演をした。
この「逃走」はこれからの「闘争」のアジテーションでもある。
したがって、ふるさと福井で行った。
なぜならば、私のふるさとをまず、変革、改革から始めたいと当初から考えていた。
「場」は講演として与えられた。
「福井県経営品質協議会10周年記念大会」である。
この経営品質協会は、代表幹事が高校時代以来の親友であり、私をいつも精神的、
さらには経済的にずーっと支援をしてくれている玉木洋・福井キヤノン事務機代表取締役である。
この協会を彼がリーダーシップをとって福井県にて活動を開始したとき、
マーク・表彰状・トロフィーをデザインしている。
現在、この不況は、すでに「終焉している資本主義に気づかなかった
オピニオンリーダーや政財界のリーダー(現在の日本には絶滅しているが)たち」の責任である。
したがって、このBlogでは、彼らと時代・社会への闘争論理である。
玉木(親友ゆえこう呼ぶが)は、すでに10周年からこの協会活動を「福井県独自性を目論んでいる」。
彼は、「変革より、変質だ!」とさえ伝えてきていた。
「デザインが経営をも補完する」ということを最も早く知ってくれていた。
彼や、福井県での同世代の経営者とのことはいづれ著作にしたいと思っている。
「資本主義を変革、いや、変質させる手立て」は、今、76項目までを論理化している。
これは、100項目にすれば、
「101匹目のサル」という論理構造が派生し、
具体的デザインに必ず結実するという確信が私にはある。
したがって、この講演会では5項目を講演した。
おそらく、ここしばらくはこの講演内容をアジテーションしていかなければ、
この不況をデザインによって変えることはできないと考えている。
講演メニューを紹介しておきたい。
・
そして、何よりも、この講演後にはパネルディスカッションにも加わった。
私は、本来はパネルディスカッションのパネリストは引き受けないことにしている。
しかし、親友の依頼は引き受けた。
そして、若手の経営者二人に出会った。
彼らを是非とも紹介したいと思う。
というよりも、今、私が注目し、彼らが20代から私と交流してきた何人かが存在する。
彼らこそ、「新しい変革者である。玉木流に言えば、「日本経済、新世紀の変質者である」である。
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3月 4th, 2009 Posted 12:54 AM
4
「比例式」ってご存知ですよね。A:B=X:Yという「数式」の一つの形式です。
これは、AY=BXが成立する数式です。
たとえば、A:B=1:0とすれば、A0=B1です。
そこで、こういうことを、この比例式で表してみましょう。
資本主義:共産主義=1:0なら、
共産主義が1だとすれば、資本主義は0となるわけです。
この解釈は、二つの考え方でみることができます。
共産主義を「存在」させて、
資本主義を「壊滅=0」にすれば、
共産主義は、「存続」できるという論理構造を表した「比例式」であった、ということです。
もうひとつは、
資本主義が「存在」=1とします。
共産主義が「崩壊」=0とすれば、
結局は、共産主義が崩壊すれば、
存在していた資本主義も0なので、「非在」である、ということです。
この論理に向かわなかったマルクスの思考不足を私は指摘しておきます。
それは、彼が、「科学的社会主義の構築」、
その下敷きに、「数学的な論理」を使おうとしていたことです。
・
彼は、「数学的な覚え書き」を、自分も学習し、
同志としてのエンゲルスに、なんとしても伝えようとしたノートがありました。
1933年に、日本でも入手されていましたが、当時の日本で、
これを翻訳するということはとんでもないことでした。
ところが、1949年・昭和24年に、岩波書店からマルクスの「数学に関する遺稿」として、
200円で出版されました。
このノートに、以後、マルクスの資本論構築の思考回路を辿ることができます。
ノートの最初が、「導関数」です。
最終章では、「原始関数」でまとめることで、
「解放」というコンセプトを数学的に立証可能にしていることです。
残念ながら、この「数学に関する遺稿」を背景とした
「資本論」の読み方と解釈がまったく無いことです。
あるのかもしれませんが、これまで私はずいぶんと探してきましたが、見つかりませんでした。
ところが、最近、英語の原書があらためて出版されています。
現在のこの不況を再考するために、マルクスにも回帰して検分しようということなのかもしれません。
ともかく、「価値」ということの見直しが、世界的にも始まっているのでしょうね。
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2月 18th, 2009 Posted 12:34 AM
3
そう思って、最近は、「龍」のブレスレットに凝っているのです。
なぜって?
ブレスレットと指輪は、母への挽歌ですから。
21年間、私を育てるだけの生涯だった母、
47歳で逝ってしまった母への想いがあるからです。
私の母は、美大に進学すると、ブレスレットと指輪を買ってくれました。
当時私は、「こんなの女々しいよ」と、ほとんど拒否的だったのです。
ところが母は、
「いいえ、これからの男は、ブレスレットと指輪をするべきよ」
と言われたのです。
母は私に、美大進学を俄然すすめてくれたのです。
「あなたに、医学部は似合わない。
生涯、赤い血を見て暮らすより、赤い絵の具を見て暮らす方が楽しいし、
あなたに似合っている」
という人でしたから、
彼女の言葉で、ブレスレットと指輪は、以来、私の大事な趣味です。
・
男ゆえに、
チャラチャラして見えるかも知れません。
が、指先と腕にあるべき「かたち」ゆえ、
絶対に「美しいモノ」として、
身体化させる意味があると考えています。
これから、指輪やブレスレットのことも紹介します。
今、なぜ「龍」なのかというと、今年早々、夢に出てきたのです。
それに「龍」というのは想像上の動物です。
自分流に「描いてみたい」と思っています。
そして、「資本論」に真剣に向かっているのです。
マルクスを超える話にもどります。
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2月 16th, 2009 Posted 3:03 PM
2
・
資本主義は、狸が木の葉に息をかけて紙幣にしていたのです。
そして、やっと、世界中が気がついたのです。
なーんだお金=紙幣は木の葉!だった、ということです。
今、日本には哲学者がいません。
人生これまで最も敬愛し、かわいがっていただいた中村雄二郎先生は、
今はベッド生活なので、質問できないさみしさとかなしみでいっぱいです。
最近、どういうわけか「臨床哲学」を吹聴する学者が増えました。
けれども決して、中村雄二郎先生を超えられないことは明らかです。
フランスの哲学アカデミーが、認めた日本の哲学者は、西田幾太郎と中村先生だけですから。
人間は、自分の経験を買いかぶってはいけません。
歴史にもどって歴史から推測するのが基本でしょう。
それは歴史の背景であったその時の哲学だと、中村先生から教えられてきました。
だから経済学者に時代を予知し予測などできるわけがないのです。
だから、デザイナーの直感がきっと当たっていると思います。
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2月 13th, 2009 Posted 1:03 PM
1
華甲になるから、私発言を始めます。
「金融工学はマルクスが言い出したのです」
もう「資本主義はすでに終わっている・・・のに」!
何を血迷って、不況だ不景気だ!と騒ぐのかと思います。
すでに、こうした事態を予想しておくべきだったのです
そう思うと、三度目ですが、『資本論』を読み直すことにしました。
高校時代に読んだことがあります、全巻です。
大学時代には、結構懸命に読みました、大学生の基本的な知識だと思っていましたから
結果、よく『空想と科学』で共産主義に染まるものだと言わます。
しかし、私は、なんとも、こんな考え方は「全く間違っている」と思ってしまったのです。
だから当時もっとも盛んだった学園闘争など、本当に馬鹿げて見えていました。
それより、美大の実習課題をやりとげることが、苦しくもあり楽しいし懸命になれました。
マルクスの『資本論』は、高校と大学時代には、岩波の文庫本でしたが、
今度は思い切って、「全3巻5冊」というハードカバーを買い込みました。
1949年(私の生年)に、『マルクスの数学遺稿』というのが発刊されています。
すなわち、金融工学の始祖は、マルクスです。
これすら明言している学者は皆無です。
この「遺稿」は、エンゲルスに「導関数」を教えるノートだったのです。
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