7月 21st, 2010 Posted 12:00 AM
外観化の思想
私は、デザインを「付加価値」だと考えたことはまったくありません。
理由は簡単です。
当然、デザイン職能は「外観づくり=形態化」に集約された営為です。
しかし、「外観」は単なるハリボテを纏わせているわけではありません。
特に、機器であれば、筐体・基盤・機構などを「実装」します。
そして、それぞれの「素材」を熟慮しなければなりません。
ソファやイスなど、ほとんど「構成」された形態といえども、
内部の構成部品や構造から製造工程、流通・運搬工程に、本来のデザインは関わります。
「本来のデザイン」と改めて記述しました。
「デザイン」=形態化というのは、私自身、美大では産業美術学科であり、
まさしく産業のために美術を応用しようという時代を通過しました。
しかし、それはデザインを「制度」として日本に位置づけた官僚的な判断だったと考えます。
未だに大学教員の専門が「デザイン」は「美術」に配属されています。
結局わが国の文化的醸成度が大きく欠落していたからでしょう。
確かに、大学では産業美術としてのインダストリアルデザインを学びましたが、
美術的なテクニックはあくまでも「表現手法」として訓練されただけでした。
むしろ、「デザインの本質」としては、
「社会的・Socio・デザイン」と「革新的・発明を念頭・デザイン」や
「少数派のためのデザイン(現代的に言うユニバーサルデザイン)」など、
考え方や思想面を徹底的に仕込まれました。
企業内インハウスデザイナーになってからは、
さらに「発明や革新性や社会性、文化性」をデザイン部門は常に追いかけていました。
デザイン=意匠=外観化の基盤や背景・思想であり、
単純な「商品価値を強化する付加的要素としてのデザイン」は、私の経験の中では皆無でした。この私の体験は、決定的に「付加価値否定論」者です。
物語=モノ語り
私がデザインは「全体価値」と言うことを「物語」=モノ語りに焦点化させたのは、
次のような考え方がありました。
まず、「モデル化」;
すなわちデザインモデルは「数理的モデル化」に近似しているということと、
見本ではなくて手本、つまりサンプル思考では無くてテキスト思考だということです。
そして、いづれの「モデル化」にも共通しているのは、「構造主義的な思考」です。
これは、70年代からの社会科学に数理モデルの適用や、
文化人類学からエソノメソドロジーやセマンティックスが混在化しつつ、
「学際性」により専門性の解体が始まろうとしていた時期と共時できた幸運でした。
「物語」への構造主義的な論理に私は心惹かれるとともに、
自らのデザイン背景、「論理から形態と形態から論理」のインターラクション性、
ことばとかたち:かたちとことばを意識するようになりました。
結果、「付加価値というデザインはあり得ない」ことへの自覚と自信が、
私のデザインにも表れる様になったものと自負しています。
Tags: インダストリアルデザイン, 付加価値, 制度, 加価値否定論, 基盤, 外観化, 実装, 形態化, 思想, 意匠, 文化性, 構成, 機構, 流通, 産業美術学科, 発明, 社会性, 筐体, 素材, 表現手法, 製造工程, 運搬工程, 革新性
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7月 20th, 2010 Posted 12:00 AM
デザインは応用芸術ではない
デザインという職能効果は、バウハウス時代に様々なアプローチがあり、
建築や芸術との学際性に位置づけられていました。
その後、米国の大量生産と大量消費に結びつきました。
デザインが「付加価値」というのを招き入れたとするなら、この時代です。
「デザインは外観づくりの応用芸術」と見なされた過去があったことです。
以前、「デザイン講座」的なTV番組の中ですら、デザイン評論家が、
「商品の外観は、付加価値」的な発言を講義していました。
それは、当時の経済評論家たちも追随する風潮であり、それが歴史的な誤謬だと、
私は考えており、デザイン界の一部には容認できない内容でした。
当時、デザイナー仲間で、哲学者N先生の元にて理論構築をしたことがあります。
デザインの本質的な役割に、「問題解決」・「難問解決」と結論を持ち合いました。
私も参加し、議論させてもらっていましたが、
その時には、すでに私は「タケフナイフビレッジ」を「越前打刃物産地」に実現していました。
「タケフナイフビレッジ」に掲げたテーマは、
「私たちは美しい切れ味を鍛えています」ということでした。
これは、明白に、伝統技・産地活性と存続・刃物の未来性でした。
そして、問題解決は、三つの方向で見いだしていました。
それは「モデル化」です。
● 伝統技の現代的な技術進化・伝統技の徹底的な分析
● 素材開発から市場流通のデザイン主導
● 産地の未来像を時系列的にデザイン計画
この三つの「モデル化」は、そのまま「デザイン価値」が産業化されていない、他の地場産業、
中小企業、さらには「付加価値という誤解がまかり通っている大企業」にまで、
展開することができると私は確信しました。
特に、テクニックからエンジニアリングにするためのテクノロジーは、
デザインが持ち込むことができる。
産地存在の広報広告には、ブランドの確立から、
産地アイデンティフィケーションの確立が必然であるということ。
「製品」から「商品」になるための「情報戦略」
こうしたことを統合化し、主導するのがデザインであり、
産地がただ産業化していると思い込んでいる「商品」は、
すでに現代的な「価値評価」が行われていないことを、
産地職人のみんなに伝えていくことでした。
最も、彼らが「商品価値」として認識してくれたことがあります。
それは「商品写真」でした。
「このカメラマンはダメダ」という会話を聞いた時です。
「このナイフのこことここの光り方が撮れきっていない」という評価に私は驚きました。
すでに、彼らにとって、デザインによって可能になったことは、
「付加された外観的なこと」ではなかったわけです。
ユーザーに「製品価値」が消費する「商品価値」となるためには、
産地存在から製品までを「全体価値」にしていくデザイン、
それが不可欠になっているという認識でした。
そこで、私がその「全体価値」を「物語」と言って彼らに伝えていました。
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7月 19th, 2010 Posted 12:00 AM
デザイン価値
大企業でのデザイン活動と、
地場産業や伝統工芸産地でのデザイン活動の大きな違いは、
「デザイン価値」の認識です。
国内の大企業は、かえって、「デザイン」によって「付加価値」が上がる、
と単純に思っている所が多いと私は思っています。
つまり、経営者は「デザイン」を装飾程度のものと思い込んでいる人が多い、
これは私の体験です。特に、サラリーマン社長に多いというのが経験値です。
デザイン部門への依頼は「外観・意匠設計」、これは「装飾」にすぎないと考えているのです。
現代、いや最近はますます、この程度の経営者ばかりになっています。
それが日本の「モノづくり」の質、その低下に拍車をかけています。
むしろ、地場産業や伝統工芸産地にとって、
カタカナである「デザイン」は、
その本質を「モノづくり」の根本で語り合えば理解は深まるというのが、
もう一つの私の体験です。
さて、越前打刃物に飛び込んだ私の「伝統」と「刃物」に、
私はデザインを突きつけたことになりました。
それは、デザイン価値を伝統と刃物、
そのモノづくりの根本を革新するというまずは意気込みでした。
この意気込みや覚悟を、職人さん達に理解してもらわなくてはなりませんでした。
ところが、すでに産地活性化は、
「地方活性化政策=国家行政政策」として幾たびか試みられていたのです。
結論は、産地は「デザインに失望」していました。
理由は簡単です。
行政も、デザイナーの高名な先輩たち自身が、
「デザインという付加価値」が欠落しているということで、
製品開発をしても、東京で展覧会をやればそれで「行政指導」なるものは終わりだったのです。この事態は今も改善はされていません。
その結果、「デザイン高度化事業」の成功例は皆無と言っていいでしょう。
その事例をどれだけ多くみてきたことでしょうか。
だから、「デザイン行政」は根本から変革する必要があります。
この戦略は別稿とします。
私は三つの戦略方針を掲げました。
■「伝統」=伝統技や素材に対するデザイン
■「技術」=手づくりの継承に対するデザイン
■「情報」=産地物語に対するデザイン/
これらを統合化すれば、伝統産地の「情報化」と「製品価値」の結合です。
すなわち、これこそ、innovationであり、
伝統産地の物語情報戦略、そのデザインということでした。
すでに30年前の話ですが、
このデザイン手法は、現在も「方向づけ」として正確だと確信しています。
なぜなら、これがデザインの本質だからです。
この本質論は、「モデル化」することができます。
すなわち、「デザイン価値の定義論」だと認識しています。
デザイン価値=脱工業化であり、情報化=物語構造論へ価値論を持ち込むことになります。
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7月 18th, 2010 Posted 12:00 AM
越前打刃物へ
現・越前市(武生市)は、
私が小学5年から中学2年までをすごした街でした。
かつては、国府があり、紫式部が父親とともに滞在していて、
彼女が詠んで歌は、「こんな雪が降って寒い所はイヤだ、京の都が恋しい」というのばかり。
にもかかわらず、紫式部の街と喧伝していますし、銅像まであります。
それよりも重大なのは、「鎌」が全国(日本列島北部だけ)に出回っていたという歴史。
南北朝時代からの「越前打刃物」産地だったことです。
私が、デザイナーとして再度鍛え上げられたのは、
この産地の仲間・職人さんたちと「タケフナイフビレッジ」を創り上げたことです。
ここで、私は「デザイン」の価値=デザインされている商品価値を
産地に納得してもらわなくてはならなかったのです。
東芝時代は、デザイナーであるがゆえに、
デザイン価値を詳細些細に語り切るということはそれなりにありましたが、
「デザイン?」という一言に対して、説得し、納得してもらわなければなりませんでした。
当時も、そして現在でも、「デザインは付加価値」というのがまかり通っています。
「たかだか包丁」です。しかし、「包丁」・「刃物」と私は向かい合うことになりました。
なんといっても「伝統的工芸技術」を思い知らされることになります。
が、私はこれまでの「伝統技」がウソっぽく見えているのです。
●素材がこれでいいわけがない。
●製造方法の「手作り」が間違っている。
●産地表現が商品のどこにも無い。
●これからの包丁になれる性能・機能があるのか。
●この産地の存続性の鍵は何か。
というようなことが、それからの私へ自問自答して、なおかつ産地のみんなに、
「だから、デザインした商品にすべき」という話をしていかなければならなかったのです。
私に、これまでの「伝統技」に「デザイン」を「付加」するという発想は皆無でした。
つまり、「付加価値としてデザイン」というフレームはゼロだったのです。
以後、私は福井県内の伝統工芸産地に飛び込んでいくことになります。
私が「デザイン価値」と言うべきなら、それは次の三つに集約させることができます。
■「伝統」とは「裏切る」こと、裏切るだけの新技法をデザインが主導すること。
■「産地」の由来や作り手であるみんなを「ブランド」化すること。
■「越前打刃物」の新「物語」性を情報化していくこと。
この三つを「デザイン」で統合化してみせることができる、ということでした。
Tags: タケフナイフビレッジ, 伝統技, 伝統的工芸技術, 刃物, 包丁, 南北朝時代, 商品価値, 国府, 武生市, 紫式部, 越前市, 越前打刃物, 鎌
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7月 17th, 2010 Posted 12:00 AM
自問自答の始まり
「そんなに、デザイン、デザインと言うけれど、
デザインで産地は生き返れるのか?」。
この言葉を投げかけられたことをいつも思い出します。
以後この自問は忘れたことがありません。
私の東京でのデザイナー経験が「何だったんだ」ということになります。
この自問自答に思い悩まなければならなくなった初体験でした。
私は、今も現役で、デザイナーとして製品開発から商品展開をしています。
が、この「問いかけ」を常に抱いています。
伝統工芸と波
30歳でした。ふるさと福井に帰って、もちろん仕事も無く、
夕焼けの日は、日本海に沈む夕日と波を撮影するために車で出かける日が連続していました。
興味の対象は「波」でした。
「波」のかたちは、決して同じかたち=形態のものはありえません。
そして、音響をデザイン対象にしてきた経験は「音波」でもあったわけです。
色彩も「波」でした。
私の中では、これから取り組む「伝統工芸・越前打刃物」と「波」が共存していました。
これが、今考えると「幸運」だったのです。
車椅子生活になったことは「不幸」でしたが、
「幸」そのものが実際はとんでもなく怖いことを示していることを知っていましたから、
「幸運」はすぐにやってきていたのです。
しかし、伝統工芸産地の職人さんたちに、
「だから、デザインなんだ!」と言い切れる自信は、まったくありませんでした。
その「自信」獲得のために、私はデザイナーとして振り出しにもどされていました。
私に覆い被さってくる「波」の形態を見定めるスタート地点では、
「歩けなくなった私」と「車椅子を必要とする私」を見詰めていました。
Tags: KazuoKawasaki, かたち, デザイン, 不幸, 伝統工芸, 商品展開, 問いかけ, 川崎和男, 幸運, 形態, 東京, 波, 産地, 福井, 自信, 自問自答, 製品開発, 資本主義からの逃走, 越前打刃物, 音波, 音響
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7月 16th, 2010 Posted 12:00 AM
レトリックとしてブルバキ
私が最後に開発し商品化し、
東芝での決定的な製品開発成果は、イコライザーアンプでした。
SZ-1000です。今なお、オーディオマニアには「語られるアンプ」です。
ヤフーのオークションでは使うこともできないのに取り引きされています。
そして、初めてデザイン系の専門誌にこの開発背景を書きました。
その背景に、当時、本当に思いきって、「ブルバキ」に触れました。
以後、私が飛び込んでいく世界観とデザインの学際性の基盤になっています。
しかし、ブルバキという集団が成し遂げたことは今ではそれほどでもなく思い出にすぎません。
けれども、若い頃夢中になったことの「意義」は大事であり、
生涯を決定づけているということでは、
私にとって、マルクスに傾倒しなかった「論理」があったことは確かです。
悲しいかな、同世代が70年代学園闘争に走り、
その挫折を今頃、権威主義を隠避しているのを見ると、
没落する日本はわが世代の責任と思います。
さて、「美しい花、花の美しさというものはない」を前回例示しました。
用語を取り替えれば、この入れ替えは一つの言い方にはなりますが、
これはもっとも近代において峻別されているレトリックにすぎず、
最も低能な表現手法を自己表現しているにすぎません。
この構造を多用する職能は建築家が多いようです。当然なことです。
しかし、彼らの手法には、ほとんどが対クライアントに対して、
「一品制作」であるために有効性を高度にしなければなりません。
その意味では相当のレトリック能力が求められます。
そのレトリックを使いこなす職能家として「建築家」を自称できるのだと私は判断しています。
なぜなら、その論理は彼らの設計、デザインは「一品制作=特殊解」ですが、
社会性としてのコンセンサスを得るには、
特殊解を一般解とするレトリック性が必要だからです。
したがって、構造主義や記号論などでは、このレトリックが、確実な手法論になっています。
私が美大生の頃、「造形」を論理として認識していこうとするなら、
建築家の著作しかありませんでした。
無論、バウハウス時代には、建築に集中してプロダクトデザインが位置づけられていました。
そして、まったく、建築領域でブルバキの論理を見つけた経験は皆無です。
理由は、建築には「構造学」という数学的な論理があり、
それがブルバキの論理などはまったく無視することができたからだろうと推察しています。
私は、資本主義の逃走の「場」の設定に、
感傷的ですが、ブルバキにもどることにします。
それは特殊解と一般解をつなぐレトリック納得に最適ではないかと考えるからです。
そして、ブルバキから、デザインの「付加価値論」否定を行いたいと思っています。
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7月 15th, 2010 Posted 12:00 AM
私は、東芝には主任教授のほとんど指令で入社しました。
無論、教授には「音」がやりたいと告げてありましたが、即決で東芝でした。
東芝で「音」に関わることができました。
入社早々に、Aurexブランドロゴはコンペで私のが選ばれ、なおかつブランド・ビジュアルマニュアルの整備もやりました。ネオンサインプランまでやりました。しかし、
28歳の時、交通被災でそのまま退社したわけです。したがって、何の挨拶もせずに、退社したことがずーっと気がかりでした。上司とは交通被災・車椅子生活・ふるさとUターン・大学人と常に連絡をとり相談をしてきました。というより、いつも私を見守り励ましてもらってきました。食べられなくなった頃には、東芝から仕事をもらっていましたが、それは彼の独断だったと思います。その上司から「音友会」に入会させてもらったのです。今年初めて参加し、その規模の大きさや毎年会員が増えるということです。なるほど、ヤフーのオークションで今でもAurex商品は買うことができます。私は当時はとても買えないアンプなど、おおよそ私が担当したモノはコレクションしました。コレクションした直後に、金沢21美術館で「個展」、Aurex展示だけの部屋もつくることができました。だから、私にとって音響工場は、デザイナーになって最初の道場でした。かつてお世話になった方々に御礼と挨拶ができました。最初に赴任したのが銀座の阪急ビルに意匠部がありましたが、磯子の音響工場に行ったとき、「ここが面白い」と思って、自ら工場駐在を申し出ました。したがって、私の東芝時代は、銀座・磯子・総研(現・中央研究所)・溜池(東芝EMI)・その他東芝関連工場から各種部品製造の中小企業から大企業・大学でした。事故直前には、全国主要都市に、Aurexのショールーム開設の企画書を書き、ショールームをデザイン設計施工の監督、オーディオフェアもアシスタントからディレクターもできました。担当した製品がすべてヒットしたわけではありませんが、「時代を先行したモノ」も随分とやらせてもらいました。当時は休日も会社に行くのが楽しく、また、出張中も姿を消してしまうことも何度か、「始末書」書きは得意分野でした。いわば、「自由なる新人デザイナー時代だった」、このような幸運を支えていただいた音響事業部は閉鎖されました。しかし、今となると、現在のAV時代まで当時の技術を進化させていたなら、わが国のデジタル時代は変わっていたかもしれないと思います。私がちょうど退社する時にPCM録音=デジタルHi-Fiがスタートしました。90歳の長老の方から声をかけられました。「川崎、来年も顔を出せよ、TC-560を持ってきて見せてやるから!」。「あの、それって何ですか?」、「俺がやった真空管ラジオだ」。「・・・・・・」。彼にとって多分、そのラジオは音響工場では生産していませんでしたが、技術者としての誇りある製品だったのでしょう。同期のデザイナーが逝きました。彼の自宅を訪問したとき、彼が最初にデザインしたTVだけは絶対に棄てるな、と家族に言い残していたことと重なりました。日本の電機業界を支えてきた技術者・デザイナーの魂を、私も抱いていますから充分に自負できます。Aurexは私のアノニマスデザインですが輝いていたデザイン成果だと確信しています。来年も出席したいと思っています。
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7月 14th, 2010 Posted 12:00 AM
美しい花・花の美しさ
文芸評論家だった小林秀雄の著作は、
私の世代にとって大学入学試験問題に多用されました。
そのためにいくつかの著作を読んだことがありますが、
私は、彼の視座に、当時は同意できなかったと思っています。
特に、「身震いするほどの感動」とかという文章では、
彼のような想いがするのだろうかといつも感じていたように思います。
したがって、彼の有名な一節に、
『美しい「花」がある。「花」の美しさというものはない。』というのがあります。
これは、ロダンの言葉、自然を花とした引用であり、
プラトン的思考や観念的美学の否定など、様々な解釈があります。
この一節への解釈論はいくつか自分の感覚で読んできた経験があります。
そして、私自身が、この一節とは多分生涯対峙していくことになるとさえも思っています。
言い換えると、
『美しい「デザイン」がある。「デザイン」の美しさというものはない。』
もう一つ、言い換えると、
美しい「資本」がある。「資本」の美しさというものはない。
しかし、この言い換えが、
直喩性どころか隠喩性も成立しないことは、
一点において明確です。
それは、「花」は自然物であり、
「デザイン」も「資本」も人工物ということです。
つまり、美しいデザインをする、というデザイン営為は、
「デザイン」の美しさというものを目指すからです。
そして、もっと明確になるのは、
「美しい『デザイン』がある」、ことと、
「『デザイン』の美しさ」、ということを、
デザインは目指すことができるということです。
この論点こそ、
実は、デザインの目標・目的であり、
なおかつ、デザインが付加価値と言われ続けてきたことへの大誤謬、
そのことを解決する「デザイン美」のあり方を考察することができます。
決して、デザインは、デザインの本質である美が「付加」された価値ではない、
ということを導き出してくれると、私は確信しています。
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7月 13th, 2010 Posted 12:00 AM
美のためのトレーニング
「美しい」という言葉は、ある意味では「魔物」です。
しかし、この感覚が身体化するには、
厳しいトレーニングが必要だとつくづく思います。
美大時代に、「美しい」という言葉は、「西洋美術史」の講義で初めて、
その様々な解釈があることを知りました。
「美学」というのは、大学の講義にはありませんでしたが、
美学という領域は、美術と音楽についての論考であることも当時は知りませんでした。
色彩論では、ムーン&スペンサーの調和論に「美度」という尺度が出てきますが、
やや疑問は今も変わりません。しかし、ここまで求めるという姿勢こそデザインです。
さて、資本はすでに私にはデザイン対象です。
デザインしたモノが資本です。
しかし、デザインは実務であり、実務学としては問題解決の結果=効用と効果です。
その実務手法・実務技法は、「手技」があります。
今では、パソコンでの表現手法になっていますが、
それでも「スケッチ一枚」でも、トレーニングは必要です。
美大時代、この基本は「デザインストローク」というフリーハンドでの線引きから、
私は「鶏」のクロッキーをそのストロークで描くというトレーニングを受けました。
生きている鶏は動き回ります。
その動きで、なかなかストロークを定めることはできません。
ところが、何枚も何枚も、おおよそ2週間も描き続けていれば、
ストロークで、確実に鶏のデッサンが可能になるのです。
「手」にメモリーがコピーされてしまいます。
そして、鶏の表現が「美しい・かも」というデッサンが残るのです。
この感覚がデザイナー志望者には必須です。
大学で教えるようになって、
無論コンピュータも大きな手法になってきましたが、
「手」でのフリーハンドそのものが発想している感覚があります。
そこで、「美しい資本」としてのデザイン対象を生み出すためには、
まず、「スケッチ」そのものが「美しい」こと「も」一つの条件になります。
ところが、「スケッチが美しい」ということを認識できるかどうかということです。
少なからず、「美しいスケッチ」か、「スケッチが美しい」かは、
「美しい花」・「花の美しさ」論と同値で、大きな疑問になりますが、
「美しい」という魔物的言葉に思いっきり飲まれ込むことが必要だと考えています。
かつて、「美しい日本」という表現や「美しい企業」なども、
この類であることは間違いありません。
「美しい資本」を創出するデザイン、
デザインによる「美しい資本」づくりの才能や才覚は、やはり、トレーニングが必要です。
私の「美しさ」を求めるトレーニングは
今も、フリーハンドスケッチを毎日欠かさないことです。
「美しい資本」づくりの基礎は、トレーニングという修練が必要だと思っています。
Tags: デザインストローク, ムーン&スペンサー, 実務学, 感覚, 美しい, 美しい資本, 美学, 美度, 美術, 色彩論, 西洋美術史, 調和論, 音楽, 魔物
Posted in 037「美しい価値=資本」, 資本主義から逃走せよ!
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7月 12th, 2010 Posted 12:00 AM
「土地・労働・資本」
資本主義への私の見方、と言ってこのブログを書き続けています。
肝心の「資本」は、当然ながら経済的な用語ですから、
その源、特にマルクス的には、「土地・労働・資本」が一組として扱われてきました。
それが、経済と政治とある思想で管理されれば、
なおさら、この一組の言葉はそれぞれに概念をもち、
この概念に対して、「土地・労働者・資本家」という国家的な政治形式での管理主体の検分が、
政治と経済と軍事における国際的な関係論となり、
そのまま「現代史」として、
私たちそれぞれの「日常と生き様」を支配制御してきたものだと私は考えてきました。
私は、このある意味では資本主義での三大要素の、
「土地・労働者・資本家」のどこに所属し、
私はその属性をもって生きているのかということになります。
明らかに、「労働者」という立場で「労働」、
そのプロセスで「生産」と「消費」に関わっていることになります。
しかし、この三大要素の中で「資本」は、
資本主義経済構造が極度の変換を起こしています。
私は、その根本、要素の要素を「かたち」、
その「かち」とそれらに対する私たちの「感覚」を常に意識して
「労働=職能」=デザイナーに結びつけて思慮=配慮と熟慮をして思索と思考にしています。
私の提示は、「新たな資本」・「何が資本なのだろうか」・「資本のかたち」を追い求め、
その「価値」でも「美しいという感覚受容の価値」にたどり着きたいと考えています。
私は、もはや土地は地球そのものであり、
分断されたり分割された国家や個人的な資本と同列な資産だとは考えていません。
労働者と資本家=被支配者と支配者、この構造が世界観のベースだとも考えてはいません。
「資本主義」のその原点でのマルクスから、このブログを書き起こしてきましたが、
むしろ、「物質・エネルギー・情報」が核心であって、
それを取り囲んでいる世界観と歴史観にデザインを差し向けたいということです。
簡単に言い切ってしまえば、
●「美しい物質」
●「美しいエネルギー」
●「美しい情報」
こうしたことが現在から今後の「資本」だから、
その「資本の場」に「逃走して」いく主義主張を求めています。
「資本の場」への近傍化を探し求めているのだと思ってください。
結局、
「土地」に興味があるわけでもなく。
「労働」は「働く行為」ですが、
何も「資本家」、あるいは彼らをあくまでも擁護してきた「政治形式」に、
私は自分のこれまで「生きてきた=死んでいく」何も魅力は感じていません。
むしろ、まだ「美しい」というほどではなくても、
それこそ「カッコいい」とか「かわいい」とかいう「資本」は、
生産・消費の図式をはみ出していることに、私の「感覚」が反応しているからです。
「逃走の場」は、資本の変貌と変質の拠り所への近傍するベクトル、
その作用点・方向・大きさに有るのでしょう。
Tags: エネルギー, 作用点, 土地, 変貌, 変質, 大きさ, 情報, 感覚, 支配者, 方向, 概念, 歴史, 物質, 被支配者, 資本、対価, 資本主義, 近傍ベクトル, 逃走の場
Posted in 037「美しい価値=資本」, 資本主義から逃走せよ!
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